ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』
演劇というものにまるで興味がなかった。
学校行事で観る機会が何度かあったり、誘ってもらって観に行ったことはあるけれど、ピンとくることがなかった。表面をさらりと一瞬触っていったくらいで、自分のなかにいつまでも残るものはなかった。
2.5次元舞台というジャンルはいまや立派なひとつの演劇コンテンツとしてその立場を確立しているように思うけれど、それに対しての肯定も否定も、だから持たなかった。興味がなかったから。ああまたやってんな次はこの作品か、くらいの気持ちだった。
「ハイキュー!!」という漫画作品がある。
その漫画を舞台化し、すこしずつメンバーを入れ替えたり増やしたりながら約3年半もの間、作品の世界を作り上げてきたひとたちがいる。彼らはいつしかひとつの劇団として意識を共有するようになり、また観客にも認識されるようになっていた。
そして劇団を築き上げてきたメインチームのメンバーが、2018年の秋冬公演「最強の場所」をもって全員の卒業を迎えた。
わたしはそれを、大阪なんばの映画館で、生中継された映像で、見届けていた。演劇に興味のなかったこのわたしが。
2017年の秋公演「進化の夏」が上演されると決まったとき、わたしのこころははじめてすこし揺らいだ。すきなエピソードだということもあるし、そのエピソードから物語に参加してくるチームのことがすきだったから。
けれど舞台観劇って、じつはとてもハードルが高い。チケット代は映画やアーティストのライブよりもずっとお値段がするし(その当時は仕事に問題を抱えていて収入面で不安定な時期でもあったからなおさら)、マナーというか、お作法もなんだかいろいろ窮屈そう。そしてなにより、自分が紙で読んできた世界をにんげんが演じるとなったとき、いままで自分が感じてきたものとおおきなギャップを抱いてしまったらどうしようとおもった。高いチケット代を払って観に行ったものにがっかりしてしまったらどうしようとおもった。
基本的に、原作がある場合それ以外のもの、たとえばアニメであったり小説であったり別の作家が描いたスピンオフであったり、それらをぜんぶアンオフィシャルだとわたしは考えている。だからコンテンツごとに、それはそれ、これはこれ、で楽しめる質ではあるのだけれど高いハードルを越えて飛び込む以上、どうしてもそこに期待は生じてしまう。せっかく飛び込んだ先で、できることならがっかりはしたくない。
公演は東京を皮切りに、大阪、兵庫、宮城、福岡と地方を巡り、東京凱旋公演をもって大千秋楽を迎える。
行こうか行くまいか。東京公演を終え、大阪、兵庫、宮城の公演が順に終わっていく間もずっとずっと悩んでいた。
わたしが高い高いそのハードルをようやく飛び越えたのは、福岡公演がはじまるころだった。悩んでいる間もときどき役者さんのSNSを覗いてみたり、舞台の感想を検索してみたりした。ひとの感想というのはやっぱりそれぞれのものだからあまり判断の素材にしてはいけないなとおもうのだけど、がっかりしたという声が少ないというのは材料にしてもいいのではないかとおもった。それから、役者さんたちがとても真摯に作品と向き合っているように思えたのもおおきい。
初めてじぶんでチケットを買って、観劇のお作法を調べて、夜行バスに乗って泊まりで福岡に乗り込んだ。はじめての福岡。
当日引換券というものを買ったので、座席は当日になってわかる。はじめての観劇は三列目の端っこというえらいところだった。スピーカーのド真ん前。舞台の全体は見えないから、いわゆる良席というものではない。だけど舞台に近いからマイクを通さない役者さんたちの声も(なにを言っているのかまではわからなくても)聞こえてくるし、たぶん彼らの熱量をもろに被った。そしてすきなチームのひとたちが出てくるたびに、なにかやるたびに自然とわくわくした。終わったころにはどうしてもっとはやく飛び込んでいかなかったのだろうとおもった。がっかりなんてとんでもなかった。子どもみたいに、なにも考えずにただわくわくしたし、苦しかった(この公演ではひとりのキャラクターのトラウマと向き合うエピソードがあった)。
これが舞台。生の舞台。すごい。
そこがいまのわたしの始点になった。
演劇ハイキュー!!をきっかけに知った役者さんの別の舞台をいくつか観に行った。大阪で公演してくれる作品ばかりではなかったから、観劇のために東京まで何度も足を運んだ。いつしかチケット代が云々ということはハードルではなくなっていた。何公演かあっても当然毎回おなじ内容にはならない。そのときそのときの一発勝負を懸命に表現して創り出す舞台作品への正当なお代だとおもう(それ以上に遠征費がばかにならないせいでもあるのだけれど、だんだんとそれも麻痺していた)(たぶんこういう状態を世間では〝沼に落ちた〟と呼ぶのだろう)。
わたしを演劇という世界へ誘ってくれた劇団のメインチームが、この冬に卒業という形で公演の幕を下ろした。
わたしはそれを広島はつかいち文化ホールで、梅田芸術劇場で、そしてなんばの映画館で、見届けていた。
大千秋楽。卒業という言葉はずっと役者さんたちの頭に居続けたのだろうとおもう。送り出す側のチームたちもみんな、大千秋楽にはそれぞれに抱えた感情が役の膜からにじみ出ていたように見えた。役者としてそれはどうだろうとおもわれるかもしれないけれど、若い役者さんだからこそ溢れ出た感情だった。それだけ、彼らはひとつの劇団として真剣に造り上げてきたのだ。
この舞台を観たことのあるひとならわかるとおもうのだけど、めちゃくちゃにハードな舞台作品である。プロジェクションマッピングという技術を用いながら基本的なところはすべて人力で、全身を使ってバレーボールの試合の息苦しさを、勝ちたいという感情を、演じている。
賛否はもちろんいろいろあるとおもうし、あって当然のことだとおもう。合う合わないは起こるものだから、ギャップを感じたりがっかりしたと感じたりしたひとがいたとしてもそれはけっして悪いことではないし間違いでもない。
だけど、この舞台を創っている彼らはだれひとりとして生半可な気持ちでここにはいない。それだけはどうか、伝わればいいな。
こんなめちゃくちゃしんどい舞台を、遊びの気持ちでやろうとおもう役者さんがいたらたぶん正気を疑う。だいじょうぶか君、とおもう。きっとなかにはこの作品をきっかけに名前を売りたいひともいるかもしれない。それにしたって、もっとほかにあったでしょうよとおもうよ。ここに立つ彼らはみんな、どんどんいいものにしてやろう、という気迫がすごい。じぶんに妥協を許さない。
それを彼らが自然と気負うのは、この劇団がこれまで築いて繋いできた空気と歴史がそうさせるのかもしれないし、座長が須賀健太というひとだからかもしれない。確かなキャリアとそれを傲慢に振りかざさず若い役者さんと近い目線でいる人柄は、劇団のひとたちが口々に語るこころからの敬意に現れているように感じる(わたしは須賀健太くんのファンというわけではないしもちろん関係者でもないし外側から見える部分しか知らないからこれはあくまでも想像でしかないのだけど)(ほとんど妄想に近い)。
この劇団がなければ、わたしはずっと演劇のことを知らないままで、興味もないままで、役者さんを通じて舞台の世界から世界へ渡り歩くこともないままで、彼らの熱を知らないままだった。
だからいまは、感謝の気持ちだけで彼らを見送ることができる。
「行ってきます」と言って物語を結んだ彼らを見たとき、かなしいことはないのだとおもった。すこしの間はさみしいかもしれないけれど、ここから先、卒業した彼らもそれを見送った彼らもそれぞれに別のところで、ここで培ったものを糧に活動していくのだとおもうとかなしいことなんかなかった。
どうか彼らがいつか、おおきな仕事をやり遂げるチャンスに恵まれたとき、この場所にいたことがすこしでも支えになりますように。
メインチームが卒業するというだけで劇団自体が旗卸しをするわけではないのだけど、きっとこのまま終わってしまうのかもしれないとおもった。それでもいいとおもった。この劇団自体が解散してもいい。結びとして最高の公演だった。ありがとう。
という気持ちで見届けたというのに、一週間くらいで「新作公演やりま~す!」て言われてずっこけた。まじかよ。わたしの余韻どうしてくれる。
メインチームの因縁のライバルとして劇団を支え続けたチームがその旗を引き継いでくれるらしい。
バレーボールというスポーツを題材にしているから〝繋ぐ〟ということをとてもつよく意識している劇団。新しい劇団として新しいメンバーを迎えて、これまで築いてきたものをどこまで繋いでいってくれるのか、もうすこしこの劇団にわたしもついていきたい。
ひとまず、おつかれさまでした。ありがとうございました。
そして次も楽しみにしています。
(20181223)