海辺のカフカ

村上春樹ほど、今という時代を正確に描いている作家はいないのではないかと思うことがある。隠喩やレトリックを利用して、今という世界を描いている。多くの読者は、すべてを理解しているわけではないが、そういう要素を感じとっているんじゃないだろうか。今このとき、の問題を正確に描いている作家に期待することとして、この現状を主人公がどう打破していくのかを、じっくり忍耐強くみまもっているのではなかろうか。

村上春樹は、男性中心で、不干渉で、運命に逆らえない状況、というところを、肯定も否定もせず描きだしている。そのことが、現在同じように感じているひとに好まれ、読まれる。
同時に、そのことをわかっていて、でもそれを是正したいと考えている人にとっては、悪いイデオロギーを肯定していると思われ、批判される。村上春樹は今ある状況を素直に伝えることを恐れない。現状を記述することを恐れない人のように思える。

現状を描き、その状態を見つめたままで終わるということは、肯定を内包していることは事実だろうし、それを読んで安心してしまう、成長しない、次にいかないということは、傷をなめあうだけの非常に危険な関係に陥る可能性があるという批判はあってもいい。だけど村上春樹がずっとそういうものを見つめたままで放置しているかというとそうではないと思う。海辺のカフカという小説も、踏み込んでいる小説の一つだと思う。

作者は想像力から責任は生まれると書いている。暴力は暴力しか生まないことも。そのことを、本当に深く考えないといけない。

ジョニーウォーカー的なもの(父、権威、男の世論、ひとによっていろいろある雑多なそういうもの)は、現実で殺されたが、死んでいない。観念として邪悪なものとして生きている。そしてそれは、入り口をめざし、ほしのちゃんに殺される。あのエピソードにはどういう意味があるのだろう。

今の自分にはこんな風にも考えられる。たとえば、入り口の石の先にある世界が、無意識、幼児の世界で、そこにいくことが逃避だとしたら、

そこをおおきく開いたことで、佐伯さんは罪人となった。ほしのちゃんはそこを無理解に閉じる。退避できない状況をつくりだした。そのことで悪魔は人の心に入り込めなくなった。つまり、ほしのちゃんは、無意識の、空想の世界を閉じたんだ。そこには誰もが入ることができる入口なんてあってはいけない。そこを普通に行き来できる場所にするなと、特別な場所、奇跡の場所にしておき、現実とのあまりに濃いつながりを絶て。そこをあけはなしていると、悪魔が入り込むと。その世界はもしかするとインターネットの世界に出来上がりつつあるかもしれない。

ただ一度開かれてしまった扉を、一個人が全身全霊をかけて閉じ、奇跡の場所に戻したとき、なかたさんも、カラスも殺せなかった邪悪なものを、入り口の石をとじることで簡単に殺すことができた。そこに逃げ込みたくなる状況もある。けど安易な選択はとても危険で邪悪なんだと、いいたいんじゃないのかな。そしてそこには意思というのも関係しているのかもしれない。

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