何度目かの人生敗者復活 〜仮面残留の立ち直り〜
はじめに
秋もそろそろ終わり、寒い日が増えてきました。皆様いかがお過ごしでしょうか。いよいよ冬ですね。さて、冬になるとやってくるものがあります。それは受験です。私は昨年度は仮面浪人をしていました。結果は不合格でした。もう1年仮面を被るか悩みましたが、もう諦めて今の大学に骨を埋めることにしました。それもあって私は人より受験というイベントには思い入れがあるものです。私は今年でちょうど20歳を迎えました。これを節目として今までの人生の振り返りと今後の人生設計を書き留めていきたいと思います。かなりの長文になることが予想されますが、どうぞ最後まで目を通して頂けると幸いです。
尚、この文章は下記の第0章〜第5章の全6章から構成されています。
•第0章 自我の目覚めと小学校時代
•第1章 中学校生活と高校受験
•第2章 高校生活と大学受験
•第3章 仮面浪人とその結末
•第4章 夢の断念と新たな目標、そして今
•第5章 将来の計画と抱負
第0章 自我の目覚めと小学校時代
就学前のことはほば覚えていませんが、自分は小さい頃から、周りの様子を伺ってからそれに適応しようとする(実際には適応できていないこともあったが)という場面が多かった気がします。
そして小学校入学。小学生の時は算数、社会、図画工作が得意で音楽、体育が苦手だった覚えがあります。通信講座で進研ゼミを受講してるのもあってかペーパーテストでは100点がほとんどで(していなくてもそのような人は大勢いると思うが)、たまに90点、85点を取るくらいだったと思います。学年が上がってくると徐々に話題になるのは中学受験の有無。実際、周りの友達の内、中学受験をする人が数人いて小4辺りから学習塾に通いだし、私は彼らと放課後や休日に遊ぶということは殆どなくなりました。私は当時、通信講座で進研ゼミを受講していましたが、あくまでも学校の授業の補助的な役割で中学受験するには学力は全く足りない状況でした。ある日、私は親に「友達の〇〇くんや△△ちゃんは中受の為に塾に行ってるのに、なぜ僕は中受しないの?」と尋ねたことがありました。すると「ウチはそんなお金ないから中受はしないよ。どうせ高校受験はしないといけないからその時受験するんだよ」という回答でした。(実際は近所に私立中だけでなく公立の中高一貫校もあったので、中受をしたからといって必ずしも莫大なお金がかかるというわけではないと思いますが、当時はそんなこと知る由もありません。)当時の私は、なるほどそういうことかと即納得し、高校入学まで中受という概念は自分の頭から消え去りました。高学年になると、私はとある委員会の長になり委員会活動にかなり積極的に取り組んでいました。又、当時放送されていた、大河ドラマにハマって日本の歴史、特に戦国時代のマニアになりました。一方で、運動は水泳以外ダメで(スイミングスクールに長年通っていた)マット運動と鉄棒が本当に苦手でした。他にも、同じ校区内で引越しをしたことで以前まで交流の乏しかった人とも仲良くなり、放課後は彼らと毎日のように公園などで遊び呆けてました。その間に、中学受験勢とは見えない大きな隔たりが形成されていました。
第1章 中学校生活と高校受験
さて、次は私の中学時代です。先述の通り、私は中受をしなかったので地元の公立中学に通います。私は1年生の時から運動部に入り毎日朝練と放課後練に明け暮れていました。大会で結果を残したくて誰よりも早く来て準備したり、自主練をしたりしていました。その後部長にもなりました。結局最後の大会では格下相手に負けて県大会には出られず引退となりましたが(笑) 他にも、行事の実行委員やクラスの学級長もやりました。所謂真面目な優等生という感じでしょうか(笑)
勉強面では、小学生から続けていた進研ゼミを受講していましたが、部活で忙しくなり未開封の教材が溜まりました。そこで、進研ゼミは辞めて、親の薦めもあり、地元では有名な塾に中2の夏休みから通い始めます。これが色々と衝撃的な体験でした。私はそれまで学校の定期考査では学年1位を連発して悪くても上位3位には確実に入っていました。全盛期は公立中スコア488/500を記録しました。仮に当時の同級生に学年で誰が1番頭が良かったか聞いたとすると、間違いなく自分の名前が1番多く挙げられるはずです。(自意識過剰)つまり、私は自分より頭の良い人なんてそうそう存在しない、少なくとも身近なところではそんな人いないと思っていました。しかし、塾に入ると自分は井の中の蛙だったとすぐに分かりました。まず初めに入塾テストを受けます。結果は『総合偏差値53』、、、なんと、科目によっては平均点を切っているものもありました。「おいおいまじかよ、校内では1番の俺が、塾だと平均よりちょっと上だとは、、、」と当時の私は思いました。とても屈辱的な思いをしました。結果、クラスは全部で5個ある内の上から3番目に割り当てられました。私が住んでいた校区はそこまで教育熱が高い地域ではなかったのですが、自分が通い出した塾があるのは県内でもトップレベルで教育熱の高い地域で、公立中でも優秀な人がたくさんいたのです。高校受験が終わるまではずっとその塾にお世話になるのですが、自分の通う中学校とは全く違うそういった環境で学ぶことはとても良い刺激となり、勉強において切磋琢磨するということを初めてできて楽しかったです。
その後、クラスの上下の変動が何度もあり、高校受験を迎えます。中3の夏に部活を引退してから勉強にフルコミットしたことで成績が急に上がり、第一志望だった地域で1番の公立高校の合格が見えてきました。しかし、結果は不合格。要因は内申点の低さだったでしょうか。39/45とその高校の受験生の中では低めです。なぜ39しかないのかというと、副教科が3、4ばかりだった(たまに「教科に主も副もないぞ!キキー!」とヒステリックを起こす副教科担当の害悪おばさんがいますが、教科に主と副はあります。)のと、主教科もテストは高得点だが授業中に内職をしてたので教師から反感を買ったからだと思います。結局、滑り止めで受けて合格した私立高校に進学します。この頃から塾で植え付けられた価値観も相まって、「勉強ができる奴は凄い、偉い、尊敬される」と感じるようになり、同じ中学から工業高校や無名の所謂偏差値の低い高校に進学するような人を見て内心で軽蔑し始めるようになりました。よくないです。また、私の通っていた中学校の治安というか民度が低いのもあって、漸く離れられるという喜びもあり、中学を卒業します。
第2章 高校生活と大学受験
次は高校生活編です。中学卒業後、志望校不合格という悔しさがあり、次は大学受験でリベンジしようと思い(高校受験で仮面浪人という発想は流石になかった)、3月後半から東進衛星予備校に通い始めます。それと同時期に親からスマートフォンを買い与えて貰えました。そこで自分の知らなかった情報が次々に入ってきてとても革新的な出来事でした。いよいよ高校入学となりましたが、ちょうどコロナウイルスの流行で対面授業の開始は延期となりました。その間に東進の映像授業をどんどん消化して、対面授業が始まる頃には英語は高校レベルの単語を概ね暗記し、数学は1Aの内容をほとんど終わらせました。おかげで高校の授業はスラスラ理解出来た上、成績も比較的上の方でした。うちの高校は1年生から2年生に上がるタイミングで特進クラスに上がるチャンスがありました。私は当時特進クラスではなく普通のクラスだったのですが、何としても特進クラスに上がりたかったのでとにかく勉強を頑張りました。当初は運動部に入っていましたが、高校の運動部は中学の運動部の比にならないくらいキツくて練習も多くて、勉強どころではなかったので1年生の夏に辞めました。その後、勉強の妨げになるからということで卒業まで部活にも入らなかったし、生徒会活動や行事の実行委員になることも一切ありませんでした。(今考えるとかなり後悔している)2学期からは放課後も毎日東進で勉強してから帰宅し、就寝するまで1時間くらい自習して高1から毎日5〜6時間自習していました。その甲斐もあり、学校の成績はどんどん上がり、定期考査は相変わらず苦手でしたが、高1の終わりには進研模試では総合偏差値70を超え、校内模試の順位は1桁になることもありました。文理選択については、当初は理数系が得意なのもあり理系に進むつもりでしたが、ここでも受験のことを考えて数学強いと文系だと有利じゃないかと考えて締切直前に文系に変更しました。
そして2年生になります。無事に念願の特進クラスに上がれました。このクラスのメンバーは卒業まで一緒だったのですが、皆優しくて民度も高くて本当に居心地が良かったです。新学期が始まるとまず実力考査があるのですが、そこで私は校内2位になりました。嬉しかったのもありますが、大きな自信になりました。その後、6月に共通テスト模試を全科目受けるのですが、その模試の結果が今後を決める転機となりました。当時、私は経済経営系に進みたくてとある地方旧帝大(東大京大ではない)を志望していました。東進模試を受けたことがある人はよく分かると思うのですが、志望校判定の欄に過去の合格者の平均がどのくらいの点数を取っていたかの推移が掲載されています。それを見ると私が高2の6月に取った点数は合格者の平均が高2の1月の点数とほぼ同じだったのです。この調子ならもうワンランク上のレベルの大学も狙えそうだと考え、志望校を地帝から一橋大学に変更しました。この判断は後々、諸悪の根源になりました。その後、夏休みに三者面談があり、先生からも鼓舞されて本気で目指すことにしました。クラスメイトにも志望校は自分と違えど同様に難関大を目指す友人が何人かいたので切磋琢磨しながら勉強をその後も継続しました。この頃からTwitter(現X)の浪人界隈や一橋受験生との交流も増えてきました。首都圏に住む受験生から多くの刺激を貰えたのは本当に助かりました。
そして高3になり、いよいよ受験生になりました。そこでそろそろ現実的な志望校を考えるように親から言われていました。しかしそう簡単に志望校を諦めたくなかったのでより一層勉強に励みました。秋になり冠模試を受けるも判定はC×2、全く合格の見込みがないわけでは無いが、なかなか難しいといった感じでした。そして共通テストを迎えました。何とか8割は超え共テ利用で某大学の合格を獲得しました。そこで今まで散々無理だと言ってきた親が少し期待してくれました。というのも、話は遡ること数ヶ月前、私が一橋をどうしても受けさせて欲しいと親に懇願した際の返答。「その大学は名門私立中高一貫校で6年みっちり勉強してきた裕福な家庭の人達が行くようなところで、公立中上がりの人は無理だ」確かにそうかもしれない。じゃあ、あの時、中受しないのかと聞いた私になぜそのことを言ってくれなかったのか、、、これまでの頑張りは何だったのか、、、私は小学生の時から既に一橋(を含めた難関大)に行けないことが決まっていたのか、、、じゃあ逆にあの時中受していれば良かったのか、、、中受しないでいいと言ったのは誰だよ、、、などの様々な思いが錯綜し、本当にしんどかった。少し離れた親戚に名門私立中高一貫校から現役で東京一工(のうちのどこか)に行った人がいる。その人の家庭は確かに裕福で、だからそんな最難関大学に行けたのか。でも悔しくないか、親の経済力や出身校だけで行ける大学が決まるという実態が。私の親はギリ大卒なだけで私に遺伝的な飛び抜けた知能はない。でも、足りない才能は努力で補って合格して見返してやりたかった、、、 しかしながら、努力はなかなか実らないもので受験の結果はあっさり不合格。悔しかったけど当日の出来から何となく分かってた。とは言え本当は浪人したかった。反省点や敗因を分析して次なら絶対受かる自信があった。でも浪人は叶わなかった。何故なら私立高校3年+予備校3年でかなりお金をもう使ってもらっていたからだ。とある予備校から学費全額免除の特待を頂いていたが、お金以外にも1年という時間を受験の為だけに失うのは勿体ないということだった。しかし、滑り止めで合格した大学になんて絶対行きたくなかった。そこで仮面浪人することを思いついた。あー、なんて後味悪い高校生活なんだろう。
第3章 仮面浪人とその結末
2023年4月、元国立志望共テ利用合格エリートの俺、滑り止め大学に入学する。(別にエリートでも何でもない、ただの敗者である) と同時に一人暮らしが始まる。一人暮らしとなると食事の準備や家事など全部自分でする必要があり、大変なのは間違いないが、それ以上に自由気ままに生活できるのは本当に良かった。当初、仮面浪人をする予定でたくさん勉強道具も実家から持ってきていたが、せっかく大学生になったわけでまずは色々と学生生活を送ってみてから再度考えることにした。サークルにも入ったしバイトもやった。色んな人と知り合った。不本意入学した大学も割といいかも、、、と思ったのは束の間、すぐにその思い込みは覆ることになる。
いざ授業が始まると直ぐにボロが出てきました。例えば、「小数第3位って何?第2位までなら聞いたことあるんですけど」、「もう全然分からん!(高校の基礎レベルの統計の計算)」、「somedayってどういう意味?」、「ルート(√)って何すか?」など、挙げ出すときりがないです。果たしてこんな人達と一緒に勉強して何の意味があるのでしょうか。私は入学当初から難解な文章を解読したり、複雑な数式を計算したりできる能力がある人が大勢いるなんてはハナから期待していませんでしたが、まさかここまでレベルが低いとは思いませんでした。せめて義務教育の内容はしっかりと理解していて欲しいものです。上記のような馬鹿げたことを言うのはほぼ指定校推薦か内部進学の人間です。それから私は彼らを蔑視するようになり、関わることを極力避けました。そしてしばらくして、私が仮面浪人をすることを決定づけたイベントがやってきます。それはあるサークルの遠足で貸切バスに乗っていた時の話、ふと耳をすませば、受験の話が聞こえてきます。盗み聞きしていると、『私、高校生の時、無気力で全然勉強してなかったし、行きたい大学も特になかったわけよ。でも高3の秋になって先生からこの書類に必要事項書いて提出すれば〇〇大学行けるよって言われたからその通りにしたらここに来ちゃった(笑)』と聞こえてきました。私はそれを聞いて、堪忍袋の緒が切れました。こんな苦労知らずの奴らとずっと勉強した自分が同じ大学に通い、卒業したら周囲からは同じ大学出身だという認識をされるのが絶対に許せなくなりました。
その瞬間、今まで仮面浪人をするか迷っていた私の心は1つに定まりました。それ以来、そのサークルには一切行かず、徐々に大学の講義にも行かなくなり、参考書を取り出し受験勉強を再開しました。そして一橋にリベンジしたいというよりかは、早くこの大学から脱出したいという思いが強くなりました。ただ、受験勉強と一人暮らしとバイトと大学の授業を全部こなすのは至難の業で、勉強時間は高校生の時の3分の1も確保出来ていなかったと思います。学力もなかなか伸びず、精神的負担もかなり大きかったです。そして夏休みを迎えます。親に仮面浪人を打ち明けて説得しました。交渉はなかなか難しかったですが、受験関連の費用は一切援助しない、大学は休学せずにちゃんと単位を取る の条件付きで認められました。夏休みは基本孤独でずっと鬱状態でした。勉強はある程度捗りましたが。そして後期の授業が始まりました。履修登録はしましたが、授業にはほぼ出席せず自習スペースでずっと受験勉強をする生活を送りました。全く面白くなかったです。しばらくして冠模試があり判定はDとBでした。浪人しているのにAすら出せないのかとかなり落ち込みました。その後予備校の冬期講習に行ったり添削指導して下さる方にもお世話になったりしました。そして共通テスト本番を迎えます。結果は632/900。現役の頃から90点くらい下がりました。絶望です。色んなことを犠牲にしたのにこの有様かと。リサーチの結果は見るまでもなくEで、足切りが危惧される状態でした。出願校を地帝に変更しようかと考えました。しかし、地帝も判定はどこもEで、2次試験の割合が小さいので2次で逆転がかなり難しいかと思い、やはり2次で一発逆転できる一橋に出願しました。足切りをスレスレで通過し、2次試験まで社会を中心に詰め込みました。迎えた本番、数学で少しこけてしまったものの、2日目の科目でなんとか巻き返せたかもなんてホクホクしながら帰宅しました。しかし、後日見直すと次々と間違いが発覚し、3月に入る頃には不合格をほぼ確信していました。それが本当に悔しくて、これからどうすればいいのかなど色々悩んで、合格発表まで鬱状態で食事も風呂ままならず、ずっと布団にいました。結果は案の定不合格でした。この頃になると、不合格を受け入れてもう吹っ切れてやっぱりね、、、という感想しかなかったです。後期で他の国立大も受験しましたが、共テのビハインドがやはり大きすぎて僅差で不合格でした。これにて残留確定です。私大は一切受験していません。なぜなら、今の大学の状況を体感して、私大は結局どこも、想像を絶するほどの低知能の指定校推薦や内部進学の学生が一定数いるということは同じなんだと思ったからです。
仮面残留。最も恐れていたことが起きた。いっそ、勝手に大学を休学か退学して、どっかの予備校に入って2浪しようかとも思った。でもそんな気力はもうなかった。確かに不合格だったけど、勉強は十分やったし、これ以上成績が伸びる気がしなかった。それにもう大学受験というフィールドから解放されたかった。でも仮面1年間で得たのは僅か20単位と、片手で数えられるほどの数の友人しかなかった。受験を継続するも退くもどちらにせよ残酷な現実が待っていた。
第4章 夢の断念と新たな目標、そして今
まず1つ忠告しておきます。今だから言えますが、休学なしでの仮面浪人は特殊な事情がない限り、基本的に絶対やってはいけません。これは仮に私が仮面成功していたとしても同じことを言うと思います。特殊な事情というのは、自分のやりたい研究がどうしても志望校でしかできない場合や志望校に対して何らかの理由で異常な拘りがある場合です。単に、学歴を上げたい、再チャレンジしたい、成功体験をして自信をつけたい、、、などの理由では絶対避けるべきです。それに、仮に特殊な事情があっても今後の人生を考えると浪人は3年以内に収めるべきです。仮面浪人はそのやり方や結果次第では人生を大きく狂わします。(良い方向ではなく専ら悪い方向へ)具体的には孤独、鬱病、留年、家庭環境や親子間の信頼関係の崩壊など。その覚悟を持って挑むべきものです。正直に言うと、私は仮面浪人をしたことをかなり後悔しています。それは残留したことも大きな理由ですが、この1年で得たものよりも失ったものがあまりにも大きすぎるからです。仮面を通して得た人脈や経験は勿論かけがえのないものです。しかし仮面をせずに、例えば、資格の勉強をあと1年早く始めていたら、サークル活動に打ち込んでたくさん楽しい思い出や先輩や後輩との繋がりを得られていれば、などの所謂大学生らしい経験をたくさん積めたはずです。このようにリスクが大きすぎる仮面浪人ですが、それでも仮面を被るんだという人は頑張って下さいね。
仮面残留した私が今後どうするか悩んでいた時に、ふと思いついたのは3年次編入と資格取得(国家資格など)でした。そもそも、仮面浪人を始める前に編入や資格取得で受験のリベンジをしようと考えたこともありました。しかし、編入になると、今の大学に2年間(2年次編入ならば1年間だが)通わないといけない上、当時行きたかった一橋大学は編入試験を実施していませんでした。また、資格取得は別に今でないとできないわけではない(仮面浪人はやるなら今しかできないが、資格の勉強は来年、再来年、なんなら大学卒業した後でもできる)と思って、この2つの選択肢は却下しました。以上のような経緯から次は3年次編入を目指すことにしました。この編入という道は残留した自分に残された最後の希望のように感じられ、残留となっても比較的早く立ち上がれた要因です。詳しく調べてみると、編入試験は一般受験と比べて科目数(主に英語と専門科目)やライバルが少なく、国公立大学を幾つも併願できることなど多くのメリットがあることが分かりました。(もちろんデメリットもあるのは承知していた)英語は受験で培った能力がある上に専門科目は自分の興味のある分野なので勉強も捗るのではないかと考え、編入を本気で考え始めました。
しかし、いざ勉強を始めてみると、専門科目を参考書を読みながら完全独学で勉強するのはなかなか難しい上、試験までの日数が短く、現実的には編入は厳しいのではないかと考えるようになりました。編入受験生の多くは1年生の時から準備を始めるので試験本番まで1年以上あります。ところが私は2年生になるタイミングで勉強を始めたので本番まで半年程度しかありません。さらに合格しても編入学には出願時又は2年次末に取得単位が56〜62ほど必要なので、普段の授業で手一杯でした。(単位をほぼ落とせない状況)そして、1番大きかったのは、自分の価値観の変化です。将来を考えた時に、会社の元で一生労働者として搾取されるのは絶対に嫌でした。だからいずれは独立して自分の能力で稼げるようになりたいと思うようになりました。当時の自分の場合、編入で他大学に進学したところで改善されるのは学歴と周りの環境だけ(勿論それらも重要)でした。しかし、資格試験に合格して士業に就いてある程度の経験を積めば、独立して自分がもつ能力を駆使してお金を稼げるようになります。長期的な目線で考えて、私は後者を選択しました。
ちょうどその頃、公認会計士のスクール(CPA)の説明会に足を運び、会計士の魅力を再認識し、(実はCPAの説明会には仮面浪人をする前にも1度行っており、会計士の魅力等について概ね理解はしていたが当時はこれは今じゃなくて良いと考え、会計士という概念は受験が終わるまで頭の中の隅にしかなかった。)会計士を目指そうかと考えていました。早速、簿記3級の内容を復習して(1年生の時に簿記の入門レベルの授業を履修していたが当時はあまり簿記に興味を持てなかった)、自分に簿記アレルギーがないかチェックしました。これは不思議なもので、初見では関心の持てなかった簿記が、いざ夢の達成のための手段になると急に面白く感じるようになりました。そして、翌月にはスクール(CPAではない)の講座を契約し学習を開始しました。
その後、大学の講義、バイト、公認会計士試験の勉強をやりながら2年生の前期を終えます。大学の成績は昨年の遅れを取り戻すが如く上限まで科目を登録してフル単でした。(それでもまだ周りの学生と比べると取得単位は少ない)大学受験から離れて1番良かったのはメンタルが安定していることです。仮面の時は恒常的に軽い鬱状態だった上に、ストレスで白髪や抜け毛が酷かったです。さらに、今では仮面の時にはほとんど手を出す余裕が無かった趣味もいくつかできて、それなりに充実した生活を送っています。ひょっとすると今は割と幸せなのかもしれません。ここまで支えてくれた家族や周りの友達には感謝しています。
第5章 将来の計画と抱負
さあ、最後は今後の人生設計についてです。現在は公認会計士試験の勉強をしていますが、まずは日商簿記検定の合格を目指すことにしました。というのも、会計士試験で最も重要な科目は会計学(財務会計論、管理会計論)と言われる科目で中身はほぼ簿記なのです。その為、簿記1級取得を中間目標として勉強しています。まずは25年2月で2級に合格したいと思います。短答式試験(1次)は25年5月(あわよくば)、12月、26年5月(遅くとも)で合格して、論文式試験(2次)は26年8月で合格したいと考えています。2次試験合格後は補習所に3年間通い修了考査に合格し、また監査法人などで実務経験を3年積むことで漸く正式に会計士登録できます。
読者の方は1つ突っ込みたくなるかもしれません。「おいおい、会計士なりたいのは分かったが、大学受験も編入試験も諦めたままでいいのか!学歴を諦めて資格に逃げただけじゃないか!」と。ただ、私は別に心の底から諦めたわけではありません。正確に言うと、学部受験や編入試験は諦めましたが、最終学歴として現在の大学の学士を受け入れた訳ではありません。つまり大学院受験を検討しています。具体的には京都大学や一橋大学などの経営管理大学院(MBA)に入りたいです。こういうことを言うと、学歴ロンダリングや学歴厨などと罵る人がいますが別に私はそれで構いません。学歴に拘ることは大切なことですから。私は現時点で研究職志望ではないので院に行く必要はないという考えもあるかもしれませんが、勉強というほとんどの人が向き合うものの最終成果がやはり不本意入学した大学の学士というのは一生後悔するのではないでしょうか。それなら院ロンダしてでも、自分が本当に満足して学べる環境で研究し、その大学で修士の称号を獲得する方が人生の幸福度が高いと思います。今後数年の理想のキャリアとしては、大学在学中に会計士試験合格→京大MBA合格→大学院在学中に補習所&実務経験→卒業後にBIG4等に正式に就職 といったところでしょうか。勿論、こんなに上手く事が進むとは思ってはいませんが、多少時間がかかっても遠回りしてでも同じような道のりを歩んでいけたらなと考えています。
おわりに
私には勉強の才能はないし、要領も悪い、センスも根性もない。それは高校受験、大学受験、仮面浪人を経てしみじみと実感している。(なのに実力に見合わぬプライドはある)それでも、それでもいつかは勝ちたい。そんな人間が大きな目標を達成するには、足りない才能を血の滲むような努力で補うしかない。この一言に尽きる。自分は自分が思っている以上に無能で、努力をやった気になっていただけ。実はまだまだ努力が必要だったことにもっともっと早く気づくべきだった。負け続きの人生、次こそ勝ちたい。その想いを胸に、今日も必死に生きる。
読者の方の中には、「これまで悔しい思いをして今度こそリベンジしたい」、「今は絶望感や悲壮感に満ちているがいつかは立ち上がりたい」などの様々な思いがあるかと思います。それぞれがそれぞれの夢、目標を叶えることを祈念し、この文章を締めくくりたいと思います。最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。