最後まで一人で
いつもは一人旅の記事をダラダラと公開している、ハト。
この記事はそんな旅の記録とは異なり、ハトの叔母を見送った話である。
この叔母とは先の過去シリーズ・バルセロナで登場した、叔母である。
人の死や火葬などについても書いた。表現が適切でないと思われる箇所もあるが、ハト自身の覚書である。(11000字)
7月22日、ハトの叔母はこの世から旅立っていった。85歳であった。
生涯独身を貫き、自分の力で手に入れたマンションで最後の最後まで暮らしていた。最後は一人で掃除中に倒れ、ハトや叔母の弟(ハトから見たら叔父:以降叔父と表記)に発見され、微かに意識が残っていたので救急車で病院へ。病院到着と同時にホッとしたのか意識が無くなり。あらゆる検査をし、可能性を探るものの、既に打つ手が無く。緩和ケア※を提案され、それをお願いして一週間だった。
(※病院側からの説明では“緩和ケア”であったが、死亡診断書では見たことのない病名が書かれていたから、あくまでも治療という形での入院だったのかも)
つい半年前にハト母を見送ったばかりのハト。2歳年下の叔母はハト母よりも元気そうだったし、なんといっても80歳でバルセロナまで行ったことだし、認知症の症状は出ていたものの、まだまだ元気に生きて行くだろうと思っていたのだ。生命とはやはりわからない。
叔母は今年の秋にはホームへ入居する予定であった。そのため1月下旬からマンションの片付けを始めていたのだ。悔やむことがあるとすれば、夏前に入居できていたら、という点である。
とはいえ、ハトを含め、親族一同、“独身なのだから家で倒れてしまう事も有り得る”可能性も長年覚悟はしていたのだ。びっくりはしたし寂しいけれど、叔母の旅立ちは静かに受け止めることができた。
以下、叔母やハト家のことも含め、葬儀のことなどを書いていく。
叔母とハトのつながりについて
叔母はハトの父の妹。ハト父は6人兄弟。兄弟の多い世代だ。
上から順に、ハト父、伊丹の叔父、叔母、町田の叔母、八王子の叔父(この記事で叔父といえばこの人)、異母兄弟の東大和の叔母。
男3人、女3人のメンバーながら、各々の自由をめちゃくちゃ尊重しているのでそれぞれの子供達まで含めて親戚が一堂に会して、というのは一度もなく(会ったことが一度もないイトコ有り…)、だからと言って関係性が悪いわけではなく。
この6兄弟のうち、ハト父と伊丹の叔父は亡くなっている。このたび叔母も亡くなってしまったのでハト父兄弟は3人になってしまったことになる。
ハト父家(ハトの父方の家)について
ハト父家は元々本家であったらしい。実家地方に寺を造るため東本願寺からの僧侶と共に関西より(大阪だとか京都だとか…地域は不明←お寺さんに聞けばわかるだろうが…)移り住んできた一族なのだという。なので、お寺さんと(菩提寺と)の繋がりは結構濃ゆい。
そこまでして移住してきたのに2〜3代目ぐらいの当主跡継ぎが「本家なんて嫌だ」と言ったとかで独立?してしまい、本家を次男さんと交代している。“ハト父家”のスタート地点がそんな個性的な人だったからか、ハト父家はみんな個性旺盛。良くいえば個人主義、悪く言えば自分勝手な一族である。
そんなハト父家であるためか、米農家を生業としながらも副業もこなしていて、
ハト曽祖父は庭師業を興し、その地域ではなかなかの仕事っぷりだったらしい。弟子(従業員?)も何人もいて、庭師業を継いだ祖父の代まではたくさんの知らないおじいさんたちが出入りしていた。そんなハト曽祖父の子供であるハト祖父は次男だったこともあり、明治時代のその地域からとしては珍しく東京へ書生として赴いている。当時、東京へなどというのはその地域から言ったら外国に行くに等しい感覚。明治後半から大正時代のある意味日本に勢いのあった時代ならではだったのかもしれない。祖父が身を寄せていた先のお宅は証券業を営んでいたということだから、この経験が八王子の叔父に金融系へ職を求めたことへ繋がるのかなと思う。ハト祖父はそのまま東京で暮らす予定だったのだが、ハト祖父の兄である長男が亡くなり渋々渋々渋々帰郷。家を継ぎ、したがって米農家も受け継ぎ、庭師業も継いだ(庭師業の方が好きだった)
若い頃東京で暮らし、米農業の限界を感じていたハト祖父は、長男のハト父にさえ家業を継ぐことを強制しなかった。それどころかサラリーマンという働き方を勧めていたらしい。
そんな経緯もあってハト祖父の子供たち、つまりハト父と兄弟たちは全員、実家から出てしまった。全員が実家を離れることにつてハト祖父は特に反対はしなかったという。
(なんだかんだ言ってもハト父は後年、ハト一家を引き連れて実家へ戻るのだが)
ここでハト父家のことを書いたのは、葬儀やらの考え方がハト父家のセンスというのか考え方というのか、そのようなものが色濃く出ていると感じられるからである。
葬儀について
葬儀については八王子の叔父が執り行った。(もちろん、相続手続き諸々も)
叔母のマンションの片付けを始めた頃、叔父も参加してくれて、本当にありがたかった。
その八王子の叔父なのだが、ハト父家独特のセンスに加えてその年代(アラ80)としては先進的な感覚を持っていて、葬儀は迷いなく“直葬”を選択。
叔父はもともと既存の葬儀は不要と考えていた様子。
もう一つの理由として、“埋葬”をどこにするか決まっていなかったということもある。
叔父は大病をした経験からすでに自分の墓を持っていたので、そこへ埋葬を考えていたらしい。しかし、叔父の子供たちも皆独身。叔父の墓に納骨してしまうと、叔父の子供たち(ハトにとっては会ったことが無いイトコたち)が“墓じまい”するとき面倒な事になる事に気がつく。
そこで原則通り?ハト父家の墓に埋葬(納骨)することに。
独身だった叔母は実家を出ていないことになるからだ。
叔母は千葉県TDL市。葬儀社さんもその辺り。一方、ハト父家墓は新潟県K市。
そうなると“お葬式”そのものはどうなるのか?
葬儀社さん曰く、実は葬儀(お坊さんを呼んでお経を読んでもらうアレ)はしなくても良いのだそう。ハトはこれが一番びっくりであった。
ただし、火葬と埋葬はしなくてはならない、それは法律で決まっているからなのだそう。
そして“直葬”とは、お坊さんが一切関わらない方法だそうで、法律的にはそれでokなのだとか。直葬の場合、自分たちで埋葬地を用意して(当該行政機関に届け出、埋葬業者の手配も)火葬後、お願いしていた埋葬業者さんに納骨してもらうのだそう。
いくら葬儀を行わないからといって、勝手にお墓なりにお骨を入れてしまうのはダメなのだそう。
両親を送った時は実家地方だったことだし、お寺さんに連絡して仕舞えば色々考える事はなかったから、改めて説明されると法律というものの存在が大きいものに感じられた。
叔母をお願いした葬儀社さんによると、お墓がある人でも菩提寺さんや墓地が遠方にある場合、以下のような流れになることが多いのだとか。
①菩提寺さんに来てもらって葬儀を執り行ってもらい、こちらで火葬。納骨などは墓地の場所に応じて菩提寺さんと相談。
②葬儀をせずにこちらで火葬(直葬)、後に菩提寺さんに報告、納骨させて欲しい旨をお願いする、その際にどのように儀式を行うかは菩提寺さんによる。
③菩提寺さんではない僧侶さんを呼んで葬儀を執り行ってもらい、納骨を菩提寺さんに相談。葬儀を菩提寺の僧侶が執り行わないことで、埋葬を断られることもある(ずいぶんキビシイお寺さんもあるのですな)
②においては火葬前に報告した方がトラブル少ないとのこと。
けれどもハト父家はお寺さんと上記で述べたように関係が近い上、当代の住職は現代風推進派なので火葬後の報告で大丈夫と踏んで叔父は事前報告はなしとした。
つまり、直葬とは言っても最終的にはお寺さんのお世話になるスタイルだ。
その葬儀社さんの“直葬パック”は病院からの移動、火葬までの安置、お別れ会、火葬場までの移動、お骨の安置(後飾り)までとなっていた。
ハト達の選択は②になったので、僧侶による“葬儀式”はない。
出棺の日にはお別れ会、と言う時間があってなんだろうと思っていたら、お葬式で出棺前に棺内に故人の思い出のものを入れたりお花で飾ったりがあるが、そのような時間が取られていてそれが“お別れ会”だった。
なお、僧侶さんがいないし読経もないけど、蝋燭とお線香は上げる。
ハトは叔母の柩に仕事で使っていた名刺、仕事を退職した時にもらったと思われる寄せ書きの色紙、近所の子供からもらったという折り紙の花束を入れた。
仕事が叔母の人生だったからと、子供も持たなかった叔母がマンションで知り合った家族の子供のずいぶん懐かれていて、折り紙の花束は長年リビングに飾られていたものだった。
それと、死化粧があまりにもあっさりしていたので、直近まで使っていた口紅を付け直してあげた。もちろん控え目な色合いだったけど、色味が増えたことで顔色が少し華やいだ。これはやって良かったと思った。
お別れ会の時間が終わ理、出棺、火葬場へ向かう。
火葬について
火葬場は東京都の施設だが一番近くだからということで瑞江葬儀所になった。
ハトは実家地方の火葬場は何度も行っているけど、東京方面はハト母実家の葬儀くらい。
東京式骨拾いは相変わらず心臓に悪い。(炉から出したてほやほやの状態で熱々ではないか。しかも扉が開いた時、まだ残り火がチラチラしてたし、台は赤々としていた。)
お骨を拾おうと台に近づくとメチャ熱い…
お骨を二人箸で拾うのは最初だけで、あとは係の方がちゃっちゃとやってくださる。
とても手際が良く、途中で何かの器具をお骨の中でガサガサと動かしていたと思ったらそれは磁石で「お棺の釘です」と見せてくれた。そして残りの細かいお骨をステンレスの塵取りみたいのに集めて骨壷に収める。まだ細かい粉状のが残っているよな、と思ったところで終了を告げられた。「え?あの細かいのはどうなる?」とは思ったが、口にせず…(あの細かいのの行き先が気にはなったが、郷に入りては、である。)
ハト実家地方の場合はちょっと冷まして骨拾い用のステンレスのトレー?に移し替えられてから骨拾いの部屋に運ばれてくるため。トレーに近づいても仄かな温もりがあるだけで熱さは無い。しかもハト実家地方では代表者2、3人だけでしかお骨拾いをしないのだが、二人箸で拾うのは最初だけであとはそれぞれが箸を持ち、かなり細かいお骨の最後の最後まで拾う。粉状になったお骨も塵取りみたいなやつで綺麗に拾う。当然、時間はかかるが、ゆっくり拾わせてもらえる。
瑞江火葬場は炉がずらっと並んでいて、さすが大都会は違うなと思う。
最後のお別れをする部屋(炉の前で全員でのお別れは出来ないから)は扉が一方通行になっていたり炉では番号札を渡されたりで間違いが起こらないように工夫されていて、華美なところはなく、係員の皆さんも淡々としていてなんだか好印象だった。
ちなみに瑞江葬儀場はHPもあったので好奇心から閲覧してみた、ハト。
若い頃そのようなページを読んだらショックだっただろう。いろんな人生を感じさせられた。
お骨の安置
火葬から上がってきて、お骨を埋葬までにどこに安置しようかと言うことも事前に考えたことの一つである。
叔父は自分の家に安置しようとしていたが、納骨をハト父家墓にする事になったのでそれも違うなと言う感じに。
安置もハト実家、もあり得るが、現在のハト実家は叔母が暮らしていた頃の家ではない…
と言うことで、
誰もいなくなってしまう叔母のマンションだが、そこに安置する事にした。
元々叔母自身で購入した物件だし、倒れてしまうその時まで過ごしていたのだ。
独身だったので、いまさら他の家では気が休まらないだろうと。
葬儀社が作ってくれた祭壇(シルバー色の段ボールのアレは本当はなんと呼ぶのだろう→ググったら“後飾り祭壇”とあった)にお骨壷を安置。
せっかくハト父家墓に埋葬する事にしたのに叔父はやはり分骨をして、自分のところにと言う。なんで?と思ったが、叔父は自分の産みの母を知らないのだ。叔父の母である人(つまりはハト実祖母)は叔父ばまだ赤ん坊の時に亡くなってしまっていた。戦後間もない頃で医療や薬が圧倒的に足りない時代、もう少し後の時代なら確実に助かった病だった。叔父にとっては6歳年上の叔母が母代わりだったのかもしれない。
祭壇に写真やアクセサリーや叔母が勤めていた会社の襟章などを飾る。
生花も飾ったが、この暑さでは…と言うことで二日後にはダイソーの造花に交代。
納骨について
四十九日も過ぎ、いよいよハト父家墓に納骨することに。
お寺さんにハト弟が相談したところ、葬儀のようなものは無しでいいとのこと。
葬儀がないので、法名(浄土真宗のため。他宗での戒名に相当)も無し。
こちらから言えば付けてもらえらのだろうか?ハト弟は何も気にしていないので、
叔母は本名のまま納骨されることとなった。
当日はJRが止まるほどの荒天。
激しい雨に叩かれながら本堂へ上がり、お経を上げてもらう。ハトは良くわかっていないが、納骨します的なお経だと思う…
途中で焼香をするのだが、参列した全員でタイミングを間違える。なので2回お焼香をした。
笑ってしまう…。叔母はちょっとおっちょこちょいのところがあったから、まあ良いだろう。
強い雨が止まないのでお墓に納めるのを延期しようとしていたところ、奇跡的に降り止む一瞬が。そのタイミングで実行。お墓の入り口を閉じたところで再び豪雨。
叔母はお墓に入るのを嫌がっていたのか?な感じであった。
ちなみにハト父家の墓は骨壷式ではない。
大地に還ることの出来るタイプである。墓の入り口を開けると下の方には土が見える。
手前に見える白さ際立つお骨はつい半年前に入ったハト母だ。
ハト母と叔母は性格タイプが全く逆で、生前はあんまり相性良くなさそうだった。けれどもこうして一緒になってしまうとはなんとも言えないご縁なのだな。
のんびり考えているが、ハトもこのままでいくとここにインである…
こうして叔母のお別れは終わった。
ここから先は叔母の認知症と伯母宅の片付けについて書いていく。
叔母の認知症について
叔母は2年ほど前から軽い認知症的症状が出始めていた。元々がちょっとおっちょこちょいで、喜怒哀楽の怒が抜け落ちている性格だったため、老化によるものなのか性格によるものなのか認知症の初期症状なのか見分けがつきづらかった。しかし2022年後半からは知っている道を間違えたり、幻視も見え始めたので病院に連れて行ったり検査を受けさせたり包括に繋げたりしなければなあと考えてはいたのだ。そんな状態でも叔母は一人で生活そのものは出来ていた。ハトはハト母のことで時間が取れず、叔母のことは後回しになってしまっていたのだ。ハト母の葬儀が終わったので年が明けてやっと叔母の事に取りかかれたのだった。
生活そのものが出来ていたとは、一人で食事の全てが出来(炊飯器でご飯を炊く、お味噌汁を作る、切るだけのおかずは出来る)、風呂も入れて、もちろん買い物にも行ける。だから外へ遊びに行こうと誘うと喜んでお出かけの支度をしていた。時間がかかるようになっていたけど一人で出来ていたのだ。(お出かけの時はハトが叔母のマンションまで迎えに行って、送り届けていた)
ただし、それは昨年、2023年の夏まで。
12月の母の葬儀の時に八王子の叔父が参列してくれたので、思い切って叔母のことを伝えた。すると叔父も薄々気づいていて、週に一度は叔母のマンションを訪問し始めたとのこと。そして来年秋(24年秋)にはホーム入居を目指していると言う。
そのハト母の葬儀には叔母は参列出来なかった。
この時ハトは残念に思っていた。叔母にはぜひ参列して欲しかったのだ。叔母が独身で頑張ってきたとはいえ、ハト父やハト母が陰ながらフォローしていたこと、そういったフォローがまだ必要な時代だったということをハトは知っていたからだ。それに叔母自身が実家地方に帰ることのできる最後のチャンスであるかもしれないのだ。
叔母のマンションから行きも帰りも一緒に行くからと言っても「みんなに迷惑かけてしまう」と言って頑として行くとは言わなかった。
年が明けて2024年。ハトも叔母のマンションの片付けの手伝いをすることに。
元々、何年も前から叔母宅へ行く度に仕舞われなくなった物が溢れるようになっていたので、「おばさん、このままだと家の中でカニ歩きしなくちゃならなくなって危ないから、年が明けたら一緒に片付けようね。」と言ってあったのだ。
それまでは何度も片付けようよと言ってきたのだけれど、頑なに「自分でやりたい」と。しかしさすがに出来ないことを自覚し始めたのか、「じゃあ、お願いね」とようやく口にしたのだ。
叔母の認知症的症状は2024年に入ると急激に進み、それは接する時間が増えたから目につくようになってきたのだろう。洋服がちゃんと着れなくなった。前後逆だったり、裏返っていたり。言葉で指摘すると「近所だからいいの」とか言う。
若い頃洋裁もやっていてコートも作るほどオシャレさんだったのに。
ハトと叔父が部屋の荷物の選別作業をしていると叔母も最初のうちは参戦しているものの、すぐに集中力が切れてしまい、“他人事”的になってしまう。
本当は叔母に聞かずに選別作業した方が早いのだが、それではあんまりなので、いちいち聞いていく。叔父は古いものを見せていけば少しは認知機能の衰えに歯止めがかかると言っていたが、どうだったのかなと思う。
ハトは古い物を見てもらって、叔母自身が成したことや経験したことを振り返れたら良いな、と思ったのだ。手放すことは嫌がらなかったが、会社の話や海外旅行に行った話を盛んにしていたから結果としては良かったのではないかと思える。
片付け作業の期間中、ホーム入居に向けての準備もする。
全くの完全健康体だった叔母は“かかりつけ医”を持っていなかった。
あえていえば、コロナワクチンを打ってもらったクリニックか?というぐらい。
だから認知症の認定検査をどうやって受けたらいいのか分からず、まずか地域の包括センターへ。包括センターで提示されたクリニックへいき、診断書?をもらう。
その後訪問認定の申請。
それとは連動して叔母が長年続けていた人間ドックへも付き添って行く。
入居を予定していたホームで健康状態の確認を求められていたのもあって、通常の人間ドックにオプションの検査も付けた。
人間ドックのクリニックは叔母が勤めていた会社の近くにあった。
コロナで何年か間が空いていたとはいえ、すでに地下鉄の何番出口から出たらいいか分からなくなっていた、叔母。
人間ドックの間、外のカフェでnoteでも書きながら待っていればいいやとハトは考えていたが、受付さえも心許ない様子。結局、クリニック内も付き添うことにした。
…ハトももしかしたらこうなるかもしれないのだけど、と、ちょっとイラっとしつつも思う。
入居予定のホームでは順番待ちで大変かと考えていたのだが、長く待っても半年という回答を得た。これは施設によるのかもしれないが、なんだかんだで寿命を迎える方があるからということだった。
そこで金融系の手続きなどの見込みがついたら申し込みますという、いわば予約の仮予約的な状態を作った。仮予約の口約束と言った方が正しいか…つまり、こちらにお願いするけど、まだ申し込まない、的な。
片付けなどをしているうちに季節はどんどん変わり、暑い時期へと差し掛かった。
熱中症が心配になる季節。
幸い叔母はエアコン好き。空調メーカーに勤めていただけあって、付けっぱなしの方が結果として節電できることを理解している。室内温度だって叔母自身が座っているところの近くに温度計も置いてあって、環境はバッチリである。
片付けは…
叔母は全てを捨てない人だったのですごく時間がかかっていた。汚屋敷ではないが、全てきっちり収められているので却ってタチが悪い。
小さな引き出し一つでさえ、ゴミ袋一つ分になってしまう。
「これなあに?」と聞いても最後の方は「私のものではないわねー?変ねー?」と言い始める始末。本当に忘れているのか、思い出すのも面倒くさくてトボケていたのか。
叔母自身が写っている海外旅行の写真(中国だった)も「そんなところ行ってないわよ」なんて言い出すし…
それにしても、片付けの最中の叔母は楽しそうであった。
それが今回、叔母を見送ってのハトの感想だ。
最後はマンション内で倒れてしまったし、自分の物を捨てるためにハトや叔父が行っていたのだけど、楽しく喋ることができて嬉しかったのだと思う。
最後まで一人で
ハトがいつものように叔母宅に到着すると、叔父がすでに来ていた。
叔父から叔母のことを聞かされる。
叔父が到着した時には叔母はすでに倒れていて、意識がほとんどなく、失禁と便失禁があったのだそう。お手洗いのそばの狭い空間に倒れていて、叔父が体を動かしたら「痛い」とは言ったそう。それでも叔父は叔母の体を動かし、失禁の処置をし、リビングまで動かして、毛布の上に寝かせたところ、ハトが到着したのだ。
叔父は「恐れていたことが起きてしまった」と言った。まさにそうだと思う。
けれども冷静に失禁の処置ができてすごすぎる…
ハトはリビングで横に寝かされている叔母を見る。
呼びかけると微かに反応がある。呼吸は荒いが熱はない。手が冷たい。
ふと指先を見ると紫色になっている。
慌てて足指も確認すると、やはり紫色になっていた。
これは、つい半年前に見た。ハト母の最後の時の状態に似ている。
ということは…
救急車レベルだ。
いきなり呼ぶのは昨今おすすめされていないっぽいので、まずは7119へ電話する。状況と症状を伝えると119を呼んでくださいと言われる。
すぐに119へかけ直す。
状況と症状を聞かれるままに答えると「出動します」とのこと。
それから詳しい状況と症状を聞かれる。全て答え終わると「あち5分ほどで到着です」と告げられ、電話は終わった。
本当に5分経たないうちにサイレンが聞こえてくる。
搬送に邪魔にならないように玄関付近にあったものを急いで取り除く。
それと自分の荷物を確認。
救急隊員さん達が入ってくる。
何をどう聞かれ、どう答えたかは覚えていない。
担架に移された叔母とともに救急車に乗り込む。
すぐ出発と思いきや、状況など改めて聞かれる。ハトと叔父が電車利用だと確認すると、電車で行きやすい病院を選んで連絡を取っている。
救急車に乗り込んで15分くらい、ようやく病院めがけて出発。
病院へは10分くらいで到着。まだお昼前だ。
しかしこの日は休日だったため、救急はなかなかの混雑っぷり。
処置に入るまでの検査もいっぱい。その度に呼ばれ、説明を受け、サインする(叔父が)。検査結果を待ち、処置についての説明。一旦様子を観察して次の検査。また説明、サイン、処置、観察…これを5回ぐらい繰り返したところですでに夜7時過ぎ。
叔母の状態を限りなく観察した後に延命かどうかの説明。
延命するとしたらこういう治療になって、仮に意識が戻っても認知症が元のレベルに戻らない可能性が高い等の説明。何より、家には確実に戻れないという説明。
ハトよりもお若いであろう医師からは「ご本人様がどう希望されていましたでしょうか」と聞いてくる。本人の意識が戻らないからだ。叔母の人柄や仕事や好きだったことなどの話も聞かれた。医師側もどんな人物だったのか、を掴む必要があるなだろう。
相談室のような小部屋にて話をした。医師側ももちろん一人ではなくて、6人ぐらい来ていた。
ハトや叔父から見た叔母の人生を答えていた時間は結構長かった。小一時間くらい。
さらには叔父自身の延命に対する考え方も聞かれた。叔父はひたすら“自然を受け入れる”と答え、“チューブだらけになり、マンションにも帰れないなら、本人も望まないはずだ”と語った。
最終的に医師側から“緩和ケア”を提案された。
一瞬、叔母の命を決めてしまったような気がやはりした。
ハト父の延命をお願いしなかったときも同じ感情が湧いた。こういった決断にはどうしようもなく湧き起こる感情なのだろう。
こうして叔母は“緩和ケア”で入院することとなった。緩和ケアと決定したので病室に運ばれた叔母の体からは色々な医療的なチューブや針が取り除かれていた。唯一残っていたのはバランスを取るための水分の点滴。それだってとてもゆっくりしたスピードに設定されていて、しかも様子を見て終了するという。
けれども叔母の表情がとても柔らかくなっていた。
検査やら観察でいた場所はいろんな計器の音がずっとしていてうるさく、看護師さんや医師たちが行き来もあって、まあ、落ち着かない感じだったのだ。そういう場所だから当たり前なのだし、体のどこが悪いのかわかるまでは仕方ないのだろうけど、説明を受けるのに入っているだけで気が滅入る場所だったから、意識がないとはいえ、叔母だって居心地はよくなかったのだろうと思う。
空いている部屋がなかったので、その病院で一番いい部屋に入った。
それを伝えると、まんざらでもないような表情になった気がした。
こうして緩和ケアがスタート、病院に泊まる事は出来ないので、その時が近づいたら叔父に電話が入ることになった。
それから叔父はほぼ毎日、町田の叔母と東大和の叔母も一回ぐらいお見舞いに。
ハト弟と妹もわざわざ実家地方からやって来た。
叔母が独身だったのでお正月などはハト家によく来ていたので、関係性は他の従兄弟たちより近かったからだ。
叔母はずっと意識がないままだったが、誰かが行くと、体の動きが多くなったり、何かを話そうとしているのか口が動いたりしているのが多くなったりだと、看護師さんが教えてくれた。
その日はハトと妹が面会。心拍数がかなり少なくなっていた。看護師さんに「今夜なのかもですね」なんて声に出して聞いてしまうハト。(もちろん、看護師さんはそうですともなんとも言わなくて、だいぶゆっくりになって来ましたね、くらいしか言わなかったのだが)
その日は15分間という面会時間がオーバーしても何も言われず…
だいぶゆっくりさせてもらった。
帰り際、妹と「おばさん、またね」と声をかけると明らかに叔母の口元が「ありがとう」と動いた。ハトは「ありがとう、って、がんばって喋ってくれてありがとう」と言って、すでに力が入らないがまだ体温がある手を包み込むようにして握手をした。
その日の深夜。叔父から電話。叔母が亡くなったことを知らされた。
最後まで一人で。
いつも明るく、真面目でおっちょこちょい、好奇心旺盛ながら仕事熱心。
たくさんのラッキーにも恵まれたけれど、女の人が一人で生きていくのは大変な時代だっただろう。同時に物事がどんどん変化していく面白い時代でもあったと思う。
これから先の時代、もっと一人でも生きやすい世の中になっていくだろう。
どんどん自由な世界になっているのだ。
もちろん責任も同量請け負うのだが、自由とは自らに由る選択。
その選択を面白がって生きて行こうとハトは思う。
※トップ写真はハト実家のお寺さん前からの風景(5月ごろ←ハト母納骨の時)