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今生愉しさ今昔

今の人生、現時点で大分満たされている感がある。

幼少よりフラフラしたい衝動は金を得たことにより、勢い勝って休暇を潰してひたすら出歩いている。
知らない街に、知っている駅に、使い古した場所の未知に、記憶の底の薄れた建物に、とことんふらついてはブラついている。一、二駅分なら余裕で歩き、なんなら山にも登り、ひたすら歩く行為をなしている。
仕事はまぁまぁ割愛であるが、プライベートにおいてはこと、やりたいことを詰め込んで謳歌している。
因みにこれ、全て一人で行っている。
今年した事と言えば人生三回目の一人旅行、一人居酒屋やファミレスに同じ奴のン回目映画鑑賞に単独応援上映である。あとはライブ参戦とダイビングと四回目の一人旅行。
レッツエンジョイ、レッツゴーイングマイウェイ、イェー!

職場に戻れば奇異な目で異次元的生物に徐々に認定されつつある気配を感じながら、なんで一人で行くんですか?と聞かれる。
なんで?行きたいから。それしか答えはなかろうに。質問主は不満そうである。
相手曰く物事は誰かと共感共有していたいそうな。しかし当方、そーいうことは人生において必要条件ではまっっっっったく、ない。

そもそも人に対して割くエネルギー消費の著しさが酷い。気を使うのは正解がないから心底厄介だし、しなければしなかったで白い目で見られる。
別に人間関係の構築に恐怖を覚えているわけではないし、社会不適合者なまでのしんどさがあるわけでもない。
ただ、誰かに依存したり答えを人に合わせて自己を曖昧にするのは、自分の物語を委託しているようで釈然としないから。
一体自分とは何処にいるのだろうかという問いに答えられずむしゃくしゃするし、己の人生の幅を最大限に生きられない。
だから得意じゃない、だけ。
分かち合うことが幸せに感じる人もいるように、一人でずぶずぶ浸っていることも幸せに感じる人だっているのである。みんな違ってみんないいでしょ、とやかく言うなほっとけ。

人生何度目かの誕生日が来るたびに、「結婚適齢期」だの「将来を見据えた相手」だのなんだのが降って湧いて押し寄せる。同い年の同僚は焦るとかなんとかいっているが、同い年であるはずの私と言えばそっかーなもんである。なんだこの温度差。人生設計ちゃんとしてるな、偉いなーぐらいにしか思わないが、その一方で、「出会いは自分から行かなくては」「そろそろやばいよ」的なこと言われると別にいいじゃないかーとなる。
うちはうちだし他所は他所じゃん。自分の分野でしか奔放にしてないし、人がどう生きようが勝手で、自分の狭い視野に押し込めるなよ。
人生愉しんだもん勝ちとか言うくせに愉しい気持ちでいさせないのはなんでだ。世間体なんて、上っ面の皮ぺら一枚程度の価値で生き方を捻じ曲げさせるな。どうせ息苦しくなるんだ、人生なんて面倒なものだらけで重しばかりだ。
そんでも生きたがって生きてんだ。毎日毎日何処か不調で嫌な気持ちなんて、したくてしてる人はいないだろ。
だから勝手に生きさせろよ。

大人になって、幼ければ上手くいくこと、許されていたことが見えてくる。と、同時にややこしいアレコレの規則道徳、未だよくわかっていないまかり通っている当たり前を気にしながら、身を狭く小さくして生きる術もちょっとずつ、なぁなぁな気持ちで身につけざるなくなっていく。
とっくに成人した身としては、持たなければならない義務があるのは仕方がないことで、やることはやればあとはいいかと高をくくっている。大人のすることが全部無駄ではないって、割と大事なんだって、もう知ってしまっているのだ。
大人の方が過ごす時間は長いし、もしかしたら親として生きる時間も、子ども時代より長いかもしれない。
それならば、今ぐらいは、自分を自分として生きたってバチは当たらないだろう。
いつかこの気持ちが、してきたことが、どれだけ大事で尊くなるかなんてわからない。

だから私は、今日も愉しく、ちょっぴり大人の義務に身をやつしながら、好き勝手にふらついている。

#雑文 #エッセイ

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