幸あれと願うけども
幸せになりたいですよね、と言われて、すぐに返事が出来なかった。
昨年のことである。ありがたいことに後輩の式にお呼ばれされ、内心嬉々として(見返した写真では表情が無過ぎて気をつけようと思った)久しぶりに会う後輩との会話の一幕である。
幸せってなんぞや。
正直そのときなんて返したかあんまり覚えておらず、喉に引っかかったまま数日過ぎてなんなら年を越した。そして今に至る。
ちなみに年明けにはその件の後輩の式にもお呼ばれされて(今度こそは表情に気を付けて)行ってきた。
着飾った後輩はとても素敵であった。配偶者の隣にいる姿はとても一般的にみても幸福に満ちていたように思う。
幸せかぁ、幸せね。
正直ピンとこない。というか別にそんな不幸せではない。ついでに言うなら(これは自分でもどうかと思うが)おめでとうと祝う気持ちは多大にあれど、うらやましいとか自分もそうなりたいとか、そういうつよい気持ちはあんまりない。
現状、職場環境は良好でそれなりの健康体で家族も五体満足である。これ以上は欲張りだろう、持ってる癖にと下手したら石を投げられること請け合いだ。
そも、私の中の幸せとは自分でつかむものである。
となれば、件の後輩が言った言葉は世間体、もしくは人としての幸せであろう。恐らくは。
それなりの年齢になれば他所や身内から出るあの問題。危機感ないかと言われればそんなことはないが、しかして早急に肩をつけるとしてうまくいきっこないことはわかりきっているあの問題。だって一人で解決できるものじゃないじゃないか。相手の意思意見が必須事項の事案なんて望んだところで可能性の低さに泣けてくる。少なくとも私はそう。
しあわせなる概念を自身の記憶で振り返る。
記憶を十分咀嚼し、丹念にすりつぶし、喉もとに流し込み、臓器で溶かして各方々、脳にいきわたらせて思い出したのは、かつて私はそうであれ、と願われたことがあったなぁということだった。
丁度時期として同じ、制服に身を包み人がまばらな教室で、アルバムの空きスペースにかき寄せに興じていたときのことだ。
細かい経緯はあの頃に置いてきてしまったが、たまたまそこにいたメンバーで書こう、となったのだと思う。
そこには一年または三年間共に過ごした人たちがいて、学生生活を過ごしてきた。とても親しい人もいれば話す程度の人、無難にクラスメイトをやってきた人たちの方が大半で、あまりに思入れがなくて薄情な自分を感じながら、これまた安牌にその人との朧げな記憶を綴った。
中でも、ある書かれていたことばはずっと記憶に残っている。幸せな人生を歩んでくれ、と何故か見開きの一番目立つところに。
人の名前を覚えていることが苦手な私でさえ、今でも名前を覚えているほどに印象的だった。
3年間同じクラスの、出席番号が近いクラスメイト。
その言葉を書かれる程の何かを、私はかの人にした覚えがない。特に目立つような人種でもなかった。本当に教室の隅にいる学生Aレベルの人であったのに。
私は、あなたに何もしてこなかったのに。
かの人のアルバムに、その他大勢との些細な差異を言及することなく、後悔しない人生を、と書いた。
送る言葉としてはあんまりだろうと、今になって思う。相手からしたらだいぶ酷いんじゃないか。社会人になってそれなりになるが、再会の目処はなく(なんせ家から離れた学校だったので)今に至る。
それ故か何となく後ろめたくて、今でもあまりそのアルバムは開けられていない。
しあわせ、なるものは。
自身でつかむものである。はたまた与えられるものである。ときとして誰かと望むものであり、自身だけでは完結せず、花の残り香のように移ろうものである。
そしてそのしあわせを与えられたとき、人は享受するための器がなければ受け取ることは難しいように思う。
自分で思うのだ、薄情であること、あえて受け取ろうとしてこなかったこと。
受け取ることは時に傷つく。強い人間ではないと自覚しているから、見栄と強がりと鈍さが持てる武器で行使してきた。最低限生きていく為の方法が、当時はそれしかなかった。
だから、かもしれない。
おくられた言葉とおくった言葉の、歳を重ねるごとに増す重さを抱えながら、あの時の後輩の言葉を上手く返せなかったのは。
唯一と信じた手法と生き方が否定されそうな気がしたから。
後輩としては、限りなく前向きなことばとしての幸せを使ったのだと思う。かつての縁が長らく続いたこともあって、他者に願うのはただただ頼りなく淡い未来だ。
自身のことに対していっぱいいっぱいな人間が、他者に何かを祈れるのだとしたら、それは自身の裁量外のよきことであれという感情ぐらいでは無かろうか。
しあわせになってほしい。しあわせであってほしい。せめてかなしいことが、あまりその身に降り注ぎませんように。そう願うことを祈りとも呼ぶ。
幸いであれと願う、けども。私は、自分には、そう思い難い。