子供時代
幼稚園の卒園間近に、小学生になりたくないと思っていた。そのことを周りに最近話すと、早くない?と言われる。
今振り返ればそう思う。しかし当時の私は、曖昧不透明なクリーチャーが小学生になって何かしらの形になるのがなんとなく嫌だった。
ついでに言えば、朝決まった時間に登校し、席に着き同い年の子たちと集団で面と向かって何かに取り組むことが窮屈でしかたなかった。
たぶん、こっちが本音。
そんなだから、私はよく自分の世界に閉じこもってやり過ごすことにしていた。
自分の世界にいるときにすることは、専ら読書だった。
親が本好きなこともあり、その影響で本を読むことは好きで、その為に字を覚えることは苦ではなかった。習字も小学三年生頃だったろうか、習い始めていた。だから書くことも割と好きな方だったと思う。
だけど、自分の気持ちを文に移すとなると話は変わってくる。
私は道徳の科目が一番嫌いな時間だった。
道徳とは、モラル。倫理が複数集まったもの。一般的に行動の規範となるもの。規範の総体。などをいうらしい。難しい話はわからないが、社会におけるこうあるべき、という考えや行動の軸とするものなんだろうと思う。これがないと世の中は無秩序になる、ということもわかる。
だけども、それは個人の中に育めれば問題はなく、言ってしまえば小学校に入るまでの家庭教育である程度終えていれば、後は実践として行い学校の教師が発達に応じた指導を行えば済むのではないかと思っていた。
つまり、一つの部屋に集団で、ある事例についてあれこれ議論し感じたことを述べ、意見を集めることが、私にはとんでもない苦痛であった。
だって浮くのだ。
他の人とは、普通の思考ではないと思い知らされてしまう。
同じでないことに、小さな社会である同級生達は不審な目を向ける。
まだ世界が狭いその頃の子供たちにとって、横並びは当たり前。多様性は異質。知らないことは正解ではない。
そんな空間で、私の思考は警報を鳴らしていた。これを言っては奇異である。異端は排除される。周りと、同化しなければ。
自分を曖昧にして、薄めて薄めて希釈して、個性を露見させず、他人と似た意見を述べる。
私は私にして私に非ず。
そうやっていくら装っても、私という生き物は周りの様な人間にはなれなかった。繕っても、本質は出てきてしまうのだと思い知った。
今となっては、ただたまたま周りにいた人たちが視野が狭かっただけなのかもしれないが、もう時効である。
何も知らないが罪とならない時代に、当事者だけがその被害者となる。傷は膿んでジュクジュクといつまでも癒えない。
未熟な故に自身の内側を表せず、言葉に出来ず、言えないまま燻った燃え滓を何処で昇華すればいいのか。大人になって、漸く瘡蓋の形になる。しかしあの頃の傷は残ったままだ。
傷は未だ、瘡蓋のまま剥がれない。
傷はもはや、自分の一部で思考や自律性もそこに依存している。人になれなかった記憶が、自分を真っ当な人であれ、と律している。
それと同時に、あの頃の心残りを、何も言えなかった悔しさを、今になってあの時の自分を埋める様に書きなぐる私もいる。
傷は幼かった私を象徴するもので、今の私自体で、それがなかったら私ではない。
傷が消えてしまったら、私はどうすればいい?
だから私は言葉を尽くす。傷がなくなっても、あの頃は確かにあったと。私のルーツはそこにあると。遠い何処かの私が、私で在れるように。
私は、今更だけど子供時代に言葉にしたかったことを、あの日のさびしさを忘れていないと、昔の私に伝えたいと思う。