春よ遠ざけ、荒野を進め
○変わらないもの
春は死のにおいがする。
時は既に梅雨荒れ狂う初夏であるが、内を覗けば、そこはいつだって花が生茂る前の冬の終わりだ。
大気中に震える水滴は冷気に帯び、地中からは始まりの芽がにょきりと生える。厚手の衣から体温を否応なく毟り取る。隙間からひゅう、と紛れ込む。
微かな青臭さが鼻を抜けて脳へ、しかし触覚でわかるのはキリの無い冷たさだ。
いきものと、そうでないものがない混ぜになって、自身を薄暗い地中に生き埋めにするかのよう。そこで、私は地上の音を聴く。
芽吹くいのちと老いる若葉。
変化の前にはいつだって終わりがそこに潜む。
朽ちた落ち葉の下から、今か今かと狙っている。
風は朽ちた葉を掬い散らし、それを露わにする。
見えてしまったら、我らはおしまいだ。
皮が捲れ、肉と血と骨が見えてしまうように。
暴かれざる自分が、すべて野晒しにされてしまう。
食い散らかし、
放って置かれ、
野晒しにされる。
自己が、言葉が、絞り出されたたった一滴が、そんな物になってはならない。
この世は多層世界だ。認識と認識が重なって成り立つ景色だ。人は、その内の一欠片が無くなったところで、何も変わりやしないのは分かり切っている。
人にとってなんてないことが暴かれたところで、慌てめくのは当事者ぐらいだ。
ただ、そこには自分がいる。
誰にも空け渡せぬ、核がある。
それが自分を自分たらしめる。
春だ。春なのだ。
蕾は薄ら開き、芽は硬い土壌から這い出る。風はあたたかなものに変わっていき、そこまでいた冷たい空気なぞ知らぬと嘯く。
人のことをかき乱すだけ乱して、ひょいっとばかりにいなくなる、春。
知った顔でものを語られる時、私はいつだって怒りで満ちている。
全てを溶かし尽くす勢いで、それは私を暴く。遺されたこの気味悪い燻りを、あなたは知っていますか。
暖かさと冷たさがない混ぜになった、このぐるぐると渦巻く何かの正体が。
それは胸にざぁざぁと巣食い、荒らし、喉元に引っかかって何時迄も、何時迄もそこにいる。仕舞いには皮膚にまで滲み出し、赤い斑点を生み出し、私はただ耐えるしかない、あの屈辱が。
あなたに、わかりますか。
過去が深まっていく。
巣食う春は、根深く終わりがない。
段々と、それだけが意味あるものになっていく。
なつかしい、なつかしい、と宝箱に入れておけば、今の私は安全地帯でのうのうと安泰だ。
老いた先に今はなく、気付いた時には既に乾涸びているに違いない。
かわれないのだ。
生活を変えても、人と関わっても。
根っこに住み着いた季節だけは、ずっとそのまま。
剥がそうとすれば出血多量で即瀕死。
膿んだ瘡蓋はいつか跡になろう。
傷と痕は毎日更新され、次第に治すことさえ億劫になる。
それでも、歩くのをやめない。
後ろ道に血痕が残ろうと、進まねば地に伏せるのみだ。
かわれないと知ったとき、見えない先より確実にあった昔に浸っていたいのは、きっと死んだ後を既に予感しているからだ。
しかして過去は過去でしかなく、その内昔に確証が持てなくなって途方に暮れてしまうのだ。
過去を作るのは今である。
波打ち際の砂の城だっていつかは壊れる。昔に固執するとはそういうことだ。
気づくのが今か、ちょっと先か、それだけの違い。
今を少し、過去をより良く生きるかは、それ次第。
●変わっていくもの
大人という生き物は、社会で定められた枠に自身を押しやって形成される。
元々その型に埋まるほどの自身がない場合、平衡感覚が崩れていく。
ぐらりと崩した身は倒れるしかない。
足りない分は埋めるしかない。
ドロドロした自身を大人の枠に押し固めるには、凝固剤なる知識があまりに足りない。
大人になった。
責任ある生きものになった。
生活様式、周りとの付き合い。ちょっとやそっとで変動する所属している所の人間関係。
歯車がぐるぐると、絶え間なく動いて縺れてゆく。
数を増す部品はこれ迄に得てきたものと同義で、年毎に重たくのし掛かる。
忘れた頃に振り返す。
冷たくて暖かい季節はじぃっとこちらを伺っている。お前のほんとうはこちらなのだ、と言わんばかりに。
優しくなりたい自分はハリボテ。
本性のアップデートは未だされない。
すべてがコンティニューされないのだと知ってから、手当たり次第の真新しさに手を伸ばす。
振り切って、知らぬ自分を探して、置き去りの季節を遠ざける。
雁字搦めで生きている。溺れまいと足掻いてる。空気を求めて手を伸ばす。
なにがあっても荒野を睨む。先へ先へと前を見据えてしまう。
あぁ、つまりは、そういうこと。
ささやかな事柄に心を配る。少しの笑顔を誰かに向ける。引っ掻き傷にすらならないようなことでいい。取り留めないことでしかない。
ちょっとだけ話をさせて。
昨日と違う自分に夢を見させて。
変われたところと、ちぃっとも変わらないところ、変わりたかったところ。
たくさん、たくさんあるけれど。
置き去りの季節はきっと変わらない。
されど荒野は、それよりずっと続くのだ。