耳
2人の男はエレベーターを待っていた。
正確に言えば、今来たエレベーターを見逃して、椅子が付いているエレベーターを待っていた。
2人の関係は師弟のようなもので、体格が良く背がややに低い初老は先生と呼ばれ、細く賢しそうな男は君と呼ばれていた。
賢しそうな男が気を利かせ「先生、椅子がついている方にお乗りになりますか?」と尋ね、先生は「そうしようか」と和やかに言った時だった。
エレベーターが到着し、2人はそれに乗り込んだ。内装はなんでことのない無機質な空間で、椅子もさほど豪華でない、取ってつけたようなものだった。
先生は椅子に深く座り、賢しそうな男は一階のボタンを押した。2人の間は静かであった。
エレベーターが一階のロビーに着く。
扉を開けると、深緑のスーツに白のシャツ、首元には古めかしいループタイを着た、男が台座の上に飾られていた。男はエレベーターに左側を見せ、入り口を正面にして座っていた。
その男は先生の先生であり、蝋人形になってそこに飾られているのだ。
すると先生は言った。
「君。あの人は今、こちらに耳を傾けている。それが、どういうことか考えて下さい」
そう言って先生は腰を上げ、続けた。
「私も先は長くないでしょうから」
そう残して先生は賢しい男の先を歩き始めた。
賢しい男は蝋人形の耳をエレベーターのドアを押さえながら見ていた。
どうだろう、蝋人形は生きている。だからこちらに耳を傾けている。
確かに、死んだ男が耳を傾けるということはこれ以外にはあり得ないだろう。
賢しい男は気味悪く納得して先生を追いかけた。
先生が死ぬときっと口で語るのだろうと男は思った。