コスパ最悪な自由研究なんてやめてしまおうぜ?
小学校の夏休みで一番の思い出はなんですか?
スポーツに打ち込んだ汗と涙の結晶の日々ですか?それとも山盛りの塩をかけたスイカを片手にゴロゴロしたなんでもないお盆の夕暮れでしょうか。
僕の一番の思い出は、8月31日の夜に泣きながら完成させたホタルの生態調査に関する自由研究です。
泣きながら。と言っても嬉し涙にまみれたわけでなく、あなたがいま想像したように終わりの見えない自由研究に絶望し、神に救いを求めるよう涙を流し続けました。
でもね、毎年毎年神様に祈りを捧げていたわけではなかったんですよ。(そう、僕はそこまで敬虔なクリスチャンではないからね)
というのも、自由研究の題材選びはだいたいお母さんが選んでくれていたからなんです。
過去の自由研究の題材は「野菜のデンプン含有量の調査」や「食品サンプルの作り方」だったのですが、「植物の〜」に関しては近くのスーパーで販売していた自由研究キッドをお母さんが買ってきてくれたし「食品サンプル〜」に至っては家族旅行の絵日記のような有様でした。
このように、毎年何やかんやで自由研究をこなしていった僕が大人になった今でも抱えている自由研究廃止論。その理由は、過去のトラウマからくるものでなく、以下の2点です。
・自由研究って親の影響でかすぎじゃね?
・そもそも子どもが何か関心を持つきっかけが少なすぎる
いかかでしょうか?もちろん自由研究肯定派の方もいらっしゃると思うので、僕の言い訳に入る前に一度自由研究の歴史を振り返ってみましょう。
自由研究の歴史
そもそも自由研究は1947年に小学校の教科として採用されていました。しかし、教科としての自由研究の歴史は短く、5年間という短い歴史で終わりを告げられることとなります。その後、子どもの主体性を育むための教科として、総合学習の時間が2003年から始まったり、教科としてでなく夏休みの宿題として自由研究は子ども達に成長の機会を与え続けている現状につながります。
ふんふん、なるほどなるほど。
ちなみに当時の時間割の中で、教科としての自由研究がどのくらい時間を割かれていたか知っていますか?当時の6年生が一年間に学習するのがだいたい1,050〜1,190時間で、自由研究に当てられたのは70〜140時間もあったんですよ?
いかがでしょうか?そもそも自由研究が教科として存在していたのもビックリしたし、意外と学習時間が多いことにも驚いたんじゃないですか?
当時の自由研究が設置された理由は『児童の自発的活動を促すために、児童が各自の興味と能力に応じて教科の活動ではじゅうぶんに行うことのできない自主的な活動を教師の指導のもとに行うための時間』として設けられた背景がありました。でもなんで5年間で終わっちゃたか知りたくないですか?実は自由研究が外されたのにもきちんとした理由があって、『自由研究は、発展的に解消し、教科学習では達成されない目標に対する諸活動を包括して、教科以外の活動の時間を設けた。教科以外の活動としては、児童の自律的な学校生活の実践に役だつ活動(全校の児童会、学級会、校内放送、学校図書館、子ども銀行など)、また、種々のクラブ活動のような児童各自の興味や能力に応じて個性を伸ばすのに役だつ活動などっがその主なものとして示された。』とあります!
なるほどねぇ。要するに、子どもがいろんなことを体験できるように教員がサポートするよ〜という体制から、いろんなこと体験できるように様々な経験の場を用意しておいたからね〜。という風に変換してきたってことですね。
なんとなく、当時の先生方が自由研究の授業を成立させるために右往左往してる様が目に浮かんできませんか(笑)実際に当時の自由研究の時間も算数や国語の補填授業としての側面が強く、学習指導要綱の願い通りにはいかなかったそうです。
ふむふむ、なんとなく自由研究の歴史がわかったところで現在の自由研究に目を戻しましょうか。
現在の自由研究を取り巻く環境
現在の自由研究の手順としてオーソドックスなのは「研究テーマを決定する」「手順を決める」「調べたり作ったりする」「成果をまとめる」「内容を発表する」の5段階であると言えます。
さてさて、ここで問題です。子ども達が自由研究を進めるにあたって一番困っているのはどのようなことでしょう?
興味のあることを知るための情報収拾でしょうか?それとも調べたことをどうやって発表するかのまとめ方でしょうか?
正解は、、「テーマの設定でした」
もはや「意外すぎるっ!」という人はいないのではないでしょうか(笑)
実際のデータとして、2014年に「自由研究 〇〇」と検索されたのは約971,000回あり、「自由研究 ◯年生」という学校種別を複合ワードとする割合が全体の41.1%と最も多く、次に「教科 (23.3%)」「テーマ(20.6%)」「季節(9.2%)」 の順番となりました。「自由研究 まとめ方」「自由研究 書き方」など手法に関する複合検索 は全体の3.3%で「自由研究 アリ 観察」「自由研究 浮力 実験」などの具体的なテーマ を検索ワードに用いた検索は全て合わせて全体の2.2%しかありませんでした。
さてさて。これで晴れて自由研究博士となったみなさまに改めて聞きます。
自由研究って必要ですか?
僕は必要ないと思います。
自由研究の意義とは
自由研究には素晴らしい面がたくさんあります。これまで受け身での学習機会しかなかった子ども達が一夏の間に「何に興味関心を寄せるか」「何を課題として捉えるか」などと主体的な姿勢で行動に移す貴重な機会です。中には学者顔負けの調査結果を出したり、将来の夢を見つける人生のターニングポイントであったりします。
でも、そんな尖ったキラキラ事例ばかりでなく、ボリューム層に目を向けてみましょう、実際に子ども達が自由研究に取り組む姿勢に目を向けてみましょう。
毎年たくさんの子ども達が自由研究のテーマ設定に悩んでいる現状があります。なぜこんな現象が起きるのでしょうか?ただ気になることや見聞きしたことを調べればいいんじゃないの?って思いませんか?
でも現在の小学生を取り巻く環境として、週に5日間の学校生活の他に多くの子ども達が学習塾や習い事に追われ、隙間時間はスマホでの熾烈なコミュニケーション社会が成り立っています。日本全国多くの子ども達が同じようなサイクルで同じような情報を与えられ生活しています。こんなファストな生活の中でどうやって自分の感性が見出せるでしょうか?
提出された自由研究のうち約6割が親の協力のもと完成されたと言います。過半数以上が親の協力を必要としているのでしたら、もはや親の協力がなければ自由研究は完成できないのではないでしょうか?そんな学習機会は本当に子どもの自発性を育んでいると言えるのでしょうか?
僕は言えないと思います。
振り返り
これだけ自由研究に対してそれこそ自由に持論を展開してきましたが、改めて簡単に振り返りたいと思います。
そもそも自由研究の狙いは
・好奇心をもとに自主性や問題解決能力を高める
・子どもの「個」の力を養成する
・興味や能力に応じた個性を伸ばす
以上の3点であると言えます。しかし、実際のところは親のサポートありきで進まれたり、結論が約束された高品質な自由研究キッドが販売されたり、そもそも興味のあるものや調べたいものがないから作業としてこなしてしまうなど、本来目指された到達点に至っていないと言わざるを得ません。
ここまで自由研究を取り巻く環境が悪いのであれば、狙いそのものを今一度精査する必要があるのではないでしょうか?
令和の時代に自由研究をアップデートせよ!
まず第一に、子ども全員に興味対象があるという前提をやめようです。自由研究の根っこにある部分として、「みんな好きなものあるよね?」「好きなもの調べるなら苦労しないよね?」という大人の打算がある気がしてなりません。確かに、僕が教育を作る立場ならそう考えてしまうと思いますが、実際のデータとして多くの子どもが自由研究のテーマで悩んでいますし、本当にただ興味があることをテーマにしたら大人達は受け入れることができるのでしょうか?
例えば、【SMAPの解散理由の考察〜ジャニーズファン100人に聞き込みをした結果〜】や【毎日ウ◯コ日記】などを子どもがやりたい!といってきたらあなたや担任の先生は「いいね!一緒にウ◯コ観察しよーぜ!」と言えるでしょうか?おそらく多くの大人は自由にしていいよ。と言いつつ「カブトムシの生態調査」や「天気によってシャボン玉が割れる時間の長さは変わるのか」など無意識に”子どもらしさ” や”サイエンスな雰囲気”を期待しているのではないでしょうか?
そりゃねーぜ!
だって自由自由っていっておきながら勝手に理想を押し付けているんでしょー⁉︎そんなこと言われたって子ども達だって雰囲気感じ取ってるって!「あぁ‥本当はウ◯コ研究したいけどサイエンスなものにしとこ…」って萎縮しちゃうってー!
僕が言いたいのは、あくまで自由という言葉を使うなら大人達は子どもにNOを突きつけちゃあかんでしょ!ということです。
でも実際のところ、本当にどんなテーマでも容認することにしてしまうと学術としての自由研究の意義すら失われかねないと言うジレンマも同時に抱えているのです。
そこで僕が考えるのは、子ども達が興味関心を持つきっかけづくりの強化です。親や教育機関は自由研究の過程に手を出すのではなく、様々なことに関心を寄せられるよう”きっかけを与えるサポート”にこそ力を注ぐべきでないでしょうか?そうすればテーマに悩むこともなく、好奇心から始まる自由研究に取り組めるのではないでしょうか。
※具体的な施策:日常的な地域の自治体との交流、新聞切り取りノートの実施
次に自由研究のチーム化の容認です。これを言うと必ず「個の力が伸びない!」と言われるのですが、果たしてそうでしょうか?そもそも”個の力”とはなんでしょうか?
僕が思うに本当の個の力とは、全てを一人で賄う能力でなく確固たるポジションを作る力だと思います。情報収拾は苦手だけどまとめるのは得意!だとか みんなの意見をまとめるのが得意!というのも紛れのない個人の力のひとつであると思います。個人の力とは一人で見つけるのでなく、人と人との関わりの中で見つけ養っていくものでもあると考えています。
どうしても関心を寄せるものがない子に無理矢理ひとりで押し付けるより、本当に熱意のある子を中心に課題に取り組ませる経験の方がはるかに実りある実体験を与えることができるのではないでしょうか。
最後に情報取得ツールの提示です。具体的に言うと調査方法を限定するもので、
①インターネットを使うこと
②本を参考にすること
③人に聞くこと
この3点を必ず自由研究に取り入れるといったものです。
①に関しては、インターネットの情報を適切に見抜き、必要な情報をネットから取得できるようにすることが目的です。多くの情報に触れられるメリットはありますが、正確性に疑問が残り、年配の先生からはあまり使用しないよう指示されることがあります。しかし、現代の世界では情報のほとんどがネットによるものであり今後もその流れは変わらないでしょう。であれば、小学生のうちからネットの情報に触れ、その使い方を学ぶ必要があるのではないでしょうか。失敗してもいい、溢れるものを隠すのではなく使い方を教える。それこそが本当の教育であると思います。
②と③に関しては一次情報に触れることを大切にしています。多くの情報はネットから入手することができます。しかし、その情報の多くは誰かが情報をもとに感想や意見を述べており、情報の受け手側が考察する余地がありません。そこで、実際に書物に書かれているものや関係者の意見に触れ、自ら思考するきっかけが必要であると考えています。
特に③にいたっては関係者であれば専門的な意見を取り入れることができますし、それが難しい場合は第3者に研究成果や必要な情報を聞き込むことにより二次情報以降では手に入らないリアルで多様な情報に気がつくことができます。
このようにある程度選択肢を絞ることによって児童自身の抱える悩みをやわらげる他に、自由研究をへて得られる学びもグンと高められるのではないでしょうか。
_______________________________________________
以上が僕が抱える自由研究に対する思いです。
現在の自由研究は大人による”理想の子ども像”の押し付けと、処置作業として簡単にこなしていける環境に取り巻かれていると感じるを得ません。
改めていま、令和の時代を生き抜く子ども達に必要なことを見つめ直し、自由でありながらも結果的にやってよかった!と言える自由研究の形を読者様とともに模索するきっかけになれれば幸いです。
【参考文献】
https://benesse.jp/kyouiku/201608/20160824-3.html
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317741.htm