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「失われた30年」の正体 #6
2.デジタル化はなぜ進まないのか
(2)日本のデジタル化を振り返る
①IBMの壁(大型コンピュータの時代)
私が社会人になり、情報システム部門に配属された1970年代の中頃、社会のデジタル化はまだ緒についたばかりで、インターネットもパソコンもまだ存在しなかった。
企業の中枢には大型コンピュータが置かれていて専門部署だけが操作を任されていた。
デジタル化という概念もITという言葉さえも無かった。
コンピュータ産業を支配していたのはIBMであり、またIBMこそがコンピュータの標準であった。
日本では、富士通、日立、NECなどの電気製品や通信機器を製造するメーカーが業態を広げIBMの後を追っていた。
日本のメーカーは、自らのOSではなくIBMと同じOSを採用し、IBM互換機と呼ばれていた。
IBMが世界中の標準である以上やむを得なかった。
しかし、少しづつ互換機メーカーはシェアを伸ばしつつあった。
製造業全体で見れば、電気製品、自動車などで日本の存在感は大きくなり、半導体では政府が主導して民間企業の専門家達が協働して新しい製品を生み出し大きなシェアをとっていった。
対するアメリカは、主要産業だけでは無く先端企業の分野においても日本を脅威と見なすようになった。
日本の自動車を叩き壊すパフォーマンスを度々目にして、政治的にも大きなイシューになってきたと感じた頃、日米半導体摩擦が大きくクローズアップされてきた。
私は、当時としては珍しく文系の大学から情報システム部門に配属され少し戸惑っていた。
先輩達は専門学校でコンピュータについてすでに学んだ上で入社している人が多かった。
周りを見渡すと専門用語が飛び交い、仕事の理解もおぼつかず、まずはプログラミングの講習に通う事から始めなけれならなかった。
一方で、営業部門に配属された同期達は当時バブルに向かっていた日本社会の華やかな世界にいた。
まだまともな仕事もまわって来ず、時間を持て余していた私の唯一の刺激は、定期的に回覧されるコンピュータ雑誌だった。
そこには、自分の今いる職場がどういう意味を持っていて、どんな課題があるか書かれていたし、日本のコンピュータ産業の最先端を伝えてくれていた。
日本のコンピュータメーカーが後発ながらも、着実に世界の中で、存在感を示しつつある事、それでもなおIBMが世界の標準であり、日本をはじめ世界中のコンピュータメーカーはその手のひらの中にいてIBMは遥か先にいる事を伝えていた。
前章で触れた日本の停滞になった日米半導体摩擦、これと同じ構図がデジタルの黎明期にもあった。
半導体摩擦が注目を浴びていた丁度その頃、さらに先端産業であるコンピュータの世界でも、世界市場をほぼ独占していたIBMの牙城に、日本のメーカーが挑んでいた。
かって白雪姫と7人の小人と呼ばれていたコンピュータ産業、白雪姫はIBM、IBMとは異なるOSを掲げて競っていたユニバックなどの米国内のコンピュータメーカーが小人であり、白雪姫が世界市場の大半を席巻し、小人たちは最後には姿を消していった。
この後、IBMと同じOSで勝負したのが、日本の富士通、日立、NECなどのメーカーであり、成功しつつあった。
脅威を感じたのは、IBMだけでななかったかも知れない。
半導体摩擦と重なる1982年に突発的に起きたのが、IBM産業スパイ事件である。
米国内に駐在する日立、三菱電機の技術者が産業機密を盗んだ疑いで、スパイとして突然逮捕された。
当事者だけでなく、また我々のようにコンピュータに関わる職場だけでなく、広く日本国民にショックを与えた事件ではないだろうか。
ショックだけでなく何か割り切れない釈然としない思いを同時に感じたのも、我々だけではないと思う。
そんな中で、大きな希望を感じたのは「第五世代コンピュータ構想」だった。
IBM互換機ビジネスは、所詮は、コンピュータ機能の中核をなすソフトウェアの基盤であるOSがIBMと同じものが動くようにハードウェアであるコンピュータを設計し、製造する事業である。
パソコンの標準OSであるWindowsが動くWindows互換機が動くハードウェアとしてのPCを世界中のメーカーが製造・販売するのと似た構図ではある。 しかしWindowsを作るマイクロソフトはソフトウェアを売るビジネスであるのに対して、IBMはOSと一体となったコンピュータを売っているところが異なるし、当時ソフトウェアの認識は、今ほどではなくハードウェアの付属物と認識していたかもしれない。
そういう意味では、ソフトウェアの重要度が徐々に認識され始める中で、IBM互換機ビジネス自体に危うさは含まれていたかもしれない。
かといって今さら7人の小人のように、IBMと異なるOSを掲げて競う事には勝ち目が感じられなかった。
第5世代コンピュータ構想は、OSと言う領域を超えてコンピュータの概念を変え、異なるステージで世界をリードする事を目指していた。
人工知能、今で言うAIに実現を目指して、通産省(現在の経産省)が、富士通、日立、NECなどの優秀な技術者を集めて国家レベルでの研究体制を組みたてた。
産官学を動員した体制は、当時摩擦を生んでいたが世界をリードする半導体産業の次を目指すものだったかもしれない。
参加した研究者たちは目標の斬新さに刺激を受け、また世界中の研究者たちの注目を集めた企画だった。
しかしIBM産業スパイ事件や、半導体摩擦の頃、立ち上がり、大きな期待を集めながらも結果として目標を達成する事なく、10年後にひっそりとその幕を閉じた。
なぜ、失敗したのか、人員や予算の問題、ソフトウェアよりもハードウェアを重視するそれまでの考えから脱する柔軟性にかけたからなど、様々な原因があげられているが、この30年の日本の停滞と同じ構図を感じるのは私だけではないだろう。
※訂正があります。
IBM産業スパイ事件で逮捕されたのは、
富士通、日立ではなく日立と三菱電機でした。申し訳ありません。2025/1/9