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一片、一片

逢ってみたい人がいる。
けれどその人の名前も居場所も知らない。

逢ってみたい人がいる。
けれどその人はもうこの世にいないかも知れない。

それでもどうにか、一度でいいから逢ってみたいと、ずっと思い続けている人がいる。

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夫と結婚してまだ浅い頃。
ブログで知り合った女性から、お話でもしましょうと誘われた。

彼女は、私と同じくインドネシア人を夫にもつ日本人妻。
その時、彼女の夫はインドネシアに一人で帰省中で、私の夫も母親の病状が悪化したため急遽帰国していた。
まだどちらにも子供が居なかった私達は、一人で家にいるだけだしね、と仕事の休みが重なったこの日に会うことにしたのだ。

カフェ店内には、心地よいボサノヴァが揺らめいていた。
会話がスムーズに流れ始めた頃、大きめのマグカップをコトンと置いて、彼女は口を開いた。

「イテラちゃんは…不安になったりしない?…向こうに本妻がいたらどうしようとか。」

2人の間に流れていた空気が、かちっと止まった。
そして対照色に変化した。

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インドネシア。
妻を4人持てる国である。
ただし、その4人を平等に愛し、平等に養える男に限って。

あのデヴィ夫人がスカルノ元大統領の第3夫人だったことから、インドネシアの一夫多妻制を耳にしたことがある人も少なくないかもしれない。
テレビに映るデヴィ夫人を観ながら、私達夫婦も一夫多妻制について話したことがあった。
夫の見解を聞いていると、それはもう遥か昔の話のような、雲の上の大それた話のような印象を受けた。
現代を生きる一般人の私達には関係のない話のように。

だからこうして、一夫多妻制を心底怖れる目の前の女性の、すがるようなこの視線に寄り添う術が見つからなかった。

マグカップの底を見つめる、まつ毛の陰りをよく覚えている。

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夫の母親、私の義母はバリ島出身だ。
隣のジャワ島から出稼ぎに来ていた義父と恋に落ち、ジャワ島へ駆け落ちして、生涯をそこで終えた。

バリ島には、根強く残る階層─カースト制度がある。義母の家柄は高い層に属しており、それ相応の名を持ち、財を持ち、職業は男なら警察官、女なら教師と決まっていた。

そんな家柄ゆえだろうか、夫の祖父には妻が何人かいたそうだ。

「そういえば!」

はっと見開かれたその目の明るさに一瞬ひるんだ私を気遣う間もなく夫は話を続けた。

「忘れてたけど、そうそう!おじいちゃんの奥さん達の中に、日本人が一人いたよ!」

「ぅええっ?!」
今度は私の口から調子外れの大声が飛び出して夫をひるませたが、そんなの気にもせず話の先を急かした。

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夫がまだ子供の頃、その日本人の奥さんの元へ連れて行かれたことがあったそうだ。

もうこの時点で、一夫一婦制が染み込んだ私は冷や冷やしてくる。第一夫人との間の孫を連れて遊びに行く先が、第二婦人宅。

しかし、祖父のその堂々たる振る舞いから感じるのは、「そういうものだ」というこの国の常識だ。
平等に愛し、平等に養い、平等に暮らす。その先にあるのは、数家族が大黒柱の腕の中でぐるんと一つにくるまれ成される、大家族の姿かもしれない。

それが彼らの方法で、彼らの日常ということだ。

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その家は、いつも石鹸の良い香りがしていた…。
夫は遠い目で記憶をまさぐり、そう呟いた。

「日本の石鹸は良い香りなんだなぁ、そんな石鹸を使っているから、あんなに白くて綺麗な肌をしてるのかなぁって、皆でよくそんな話をしたんだよ。」

その後、祖父が亡くなり、子供がいなかったその人はひとり日本へ帰っていったそうだ。
そして二度と、彼女が戻ってくることはなかったそうだ。

名前も年齢も出身地も分からないその人。

まだ国際結婚が身近ではなかった時代に、一人バリ島に嫁いだその人。

夫のために島に留まり、夫の旅立ちと共に島を去ったその人。

一本の縦線でつながる祖父と孫。そこから伸びる横線でつながる私達。
血のつながりを示す縦線に対し、私達が伸ばした横線は愛を示す。
血を伸ばして愛を伸ばして、私と彼女はつながった。
一つの大きな家族になった。

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ざっと計算して、その人は現在70歳くらいだろうか。いや80歳くらいかも知れない。

思い出すことはあるのだろうか。
何十年前のバリ島を。愛した人を。

今や新たな家庭を持っているのだろうか。
それともひとりで暮らしているのだろうか。

愛した人の孫が同じ日本に暮らしているとも知らずに。
あの日遊びに来た坊やが、同じ地に立っているとも知らずに。

例え近くにいてもたどり着けそうにない人。
きっと生涯、一度も逢うことのない家族。

でももし運命が交差して出逢えたら。

そっと教えてほしい、

静かに時を刻むその胸の内に募らせてきた、
一片、一片を。

トップ画像はみんなのフォトギャラリーより、Kashikuさんのイラストを。

ふんわりと降りてきて、私と彼女の糸をやさしく手繰り寄せて欲しいです。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!