雨糸 #月刊撚り糸
10月だというのに、毎日暑い。うだるような暑さを何ヶ月も引きずり続け、木々もあぜ道もどろどろに溶けて無くなりそうだ。
汗が滑り落ちるうなじに、切り揃えた黒髪が貼り付いている。
去年の今頃は、もう涼しかったのに。
私は16になったあの日を思い出した。日曜日だった。糸のような雨と雨の間を、ひんやりとした風が通り抜けていく。藍色に冷水をたっぷりと注ぎ込んだような曖昧な色の空だった。
次の日の3時間目は体育だった。バスケだった。そうだ、続く雨でグラウンドが使えなかったのだ。秋の湿気を含んだ体育館を突っ切って、オレンジ色のボールが網を揺らした。16になったばかりの君の手が弾いたボールだった。
窓の外、途切れることのない雨の糸を見つめながら考えていた唯一のこと。
君。
ーーー
「どう思う?ねぇ」
「へ、え?」
この目に飛び込んできたのは、まん丸の透き通った瞳だった。
薄茶色だ。
その瞳にさり気なくかぶる栗色の前髪が揺れている。
調子の狂った音が自分の喉から出て来て戸惑う私の前で、薄茶色の満月はほどけるように三日月に変形する。見惚れてしまう。
真っ直ぐな手足、光の乗る真っ白な肌、よく転がる声、ほどける瞳。
彼女は、まるで抑えきれぬ光が漏れ出したような体をしていた。歩くたびに零れ落ちる光の屑が目に見えるようだった。ポニーテールの先は軽やかに揺れ、その上で陽が遊んだ。毛先まで彼女だった。
大体、ひいろ、なんて名前はこの田舎町では聞いたこともなかった。日彩、だなんて。もし私に付けられたら剥がれて飛び去っていきそうなその名は、彼女以外考えられない、と頑なに言い切るかのように彼女に密着し溶け混んでいた。
アイドルみたいな子が来たらしい。
東京から来たらしい。
そう騒ぐ教室が静まり返ったのは、担任の後ろに付いて彼女が入ってきた瞬間だった。
蝉の声が消えた。暑さも消えた。
去年はニュースでも騒がれるほどの猛暑だったのに。
きっと、そういうことだったのだと思う。
彼女の光が眩しすぎて夏が眩んだ。夏が霞んだ。
「言ってみようと思うの」
あの日のような青空を仰いで日彩は言った。
「田崎君に」
思わず目を逸らした。焦ってすぐに日彩の瞳にピントを合わせ直す。
「何を…」
「やっぱムリかなぁ、でも好きになっちゃったからなぁ。うん、告白する。してみる!」
オレンジ色のボールを弾いた彼の、しなる指先を思い出した。
ーーー
「傘ないの?」
パタパタッと落としたスニーカーを履きながら顔を上げたのは田崎君だった。
いや、振り向く前からそんなことは知っていた。焦がれ続けた声だ。
「あ、る…けど」
掠れた声で途切れながら返す。
「あるんだ」
気泡が弾けるような彼の笑い声。
「帰んないの?」
「もすこし、したら…」
彼の肩から視線をずらす。
「もしかして雨見てるの好きとか?」
初めて真っ直ぐその目を見た。驚いたからだ。胸の内側まで見透かされたようだった。湿気の飽和した薄暗い昇降口で、初めて私は彼の目をちゃんと見た。
「俺も好き。雨の音とか超寝れる」
立ち尽くす私に、じゃあ、と言って彼はビニール傘を開いた。そして雨の中に吸い込まれていった。
15になる前日だった。
君は知らない。
私たちが同じ日に生まれたことなんて。君と同じく、私も雨音で眠りにつくことなんて。私があの日の君を、繰り返し再生していることなんて。君と私がよく似てるということなんて。君の隣は、私がいいということなんて。
ーーー
人気のない夜の公園に着くと、美しい人がブランコに腰掛けていた。
私に気づくと勢いよく立ち上がる。
白い腕が街灯の光を集めて大きく揺れている。
「ごめーん、呼び出しちゃって」
この人は、闇の中でも輝くのだった。
ドラマの続きや、小テストの点数や、欲しい靴などの話を廻り廻った後、とうとうあの名前が彼女の口から出た。
思わず、ブランコの鎖を握る。
日彩の声が転がり始める。
鎖が濡れている。
あの眩い三日月が闇に浮かんだ。
嫌いだった。
頰に出来る僅かな窪みも、八重歯の小さなとんがりも。漂う東京の香りも、喘息の為に空気のきれいなこの町に来ましたというエピソードも。
太陽のような彼女が隣に立つことで、夕闇のような私が一層闇に押しやられてきたことも。
真夏の光のような彼女が、秋の時雨のような彼をのみ込んでいくことも。
「あぁやだなぁー明後日から雨だって。ずーっと続くって」
ブランコの下、暗い土の上に落とされた彼女の溜め息を見つめた。
そこで私は、やっと息がつけた。
やっと。
やっと雨が降る。長い長い雨が来る。
止めどなく流れ出す彼への思いを体現しているかのような長く永い雨が。
天から垂れ続ける細く白い糸を、君もきっと眺めるだろう。君の眺めるその糸と、私の見つめるこの糸は、繋がっている。
君はまだ、知らないだけ。
明後日、私たちは共に17になり、共に雨音を聴きながら眠りにつく。
#月刊撚り糸 に寄せさせていただきました。
ずっと入ってみたくて入れずにいた皆さんの輪の中へ入れた気がして嬉しいです。
優しく導いてくださった七屋糸さん、ありがとうございました。
皆さんの『明後日は雨だって』、読むのが楽しみです。