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指折り
その人がドアを開けて部屋に入ってきた瞬間、目の前に大きな花束が現れた。瑞々しい、色彩豊かな花束だった。
以前から使っていた沈丁花の香りの香水が無くなって、別の香りを探そうと出掛けた。これといったものが無く、けれど明日から香りのない日々になることには耐えられず、一本の瓶を選んでしまった。
後悔――。駐車場に停めた車の中で手首につけてみて、早速、溜息がこぼれた。後悔が車の中に積もっていった。
私が欲しかったのはこんな香りじゃない。切り落としたばかりの瑞々しい生の花束――白や黄色やピンクや紫や水色の花たちが誇らしげに楽しげに揺れている――のような香りが欲しかったのに。
そう、いつかのあの人のように。
溜息に埋もれた車内で、私はスマホ画面ををスクロールし続けた。
ある質問が目に入った。
『バスに乗ったら、花屋さんに入った瞬間のような香りの人がいた。その人はすぐに降りてしまったのでどんな香水を使っているのか訊けなかった。どなたか思い当たる方はいらっしゃいますか?』
これに対し、次から次へと同じ回答が続いていた。
『アントニアズフラワーズの香水ではないですか?』
『アントニアズフラワーズしか思い付きません』
『私もアントニアズフラワーズをすぐに思い浮かべました』
私の指はすぐさま検索窓にそのワードを打ち込み始めた。
アントニアズフラワーズはNYのフローリスト、アントニアべランカが手掛けた香水で、街ですれ違った人が、『今、花束を抱えていたのは誰?』と振り返るような香りだとか。
NYといっても、彼女が育ったのは、都会の喧噪から離れた美しい海と緑に囲まれた地。そこで、彼女は1981年に「アントニアズフラワーズ」という一軒の花屋を開いたそう。
この香水は天然香料を使っているので劣化が早いのに高価。しかし、花束をそのまま持っていると錯覚できるのはこの香水だけ。
欲しい。欲しい。この香水が、どうしても欲しい。
購入ボタンを探す。どこにも見当たらない。
その時見つけたある文字の上で、私の瞳は息絶えた。
『廃盤』――。
その香水は、なんと数年前に廃盤になっていた。そして、ネット上は、アントニアズフラワーズに似た香りを探し回る人たちで溢れていた。
使いかけの、何年も前のアントニアズフラワーズの香水が、数万円にも跳ね上がってフリマアプリに載っている。
やっと見つけたと思ったら、やっと出会えたと思ったら、それは単なる幻だった訳である。
私は諦めた。本物を諦めて、似た香水を探し始めた。ネットの世界に溢れている彼女たちと同様に。
検索を続ける。溜息にどんどんと埋もれていく。
その時だった。
なんと、アントニアズフラワーズの発売元であるレイジースーザンから復刻版ともいえる香水が出たと知る。私は、すぐにレイジースーザンのオンラインストアへ走った。
『& BOUQUET bouquet No A』
香水はそこにいた。透明なガラスのボトルに、黒でその名を刻まれて。
香りはそっくり再現できているとは言えず、多少はやはり違うようだ。天然と人工の違いなのか、目指したものが再現ではなく進化だったのか。
それでも私の指は購入ボタンを押した。『花々を身に纏う』、そのフレーズにはやはり勝てなかったのだ。
あと何日で、私は花束を身に纏い街を歩くようになるのだろうか。
明日から数日間は、香りのない私。私はすっきりと私のままで、指折り数えて待っている。
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今が夏だと知っているような色で
力の限りに咲いている
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湖嶋家に届くサブスクの花束を眺めながら、
取り留めようもない独り言を垂れ流すだけの
エッセイです〜
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