オレンジ色の光 #月刊撚り糸
押し殺したような笑い声。悪戯にこじ開けられた穴々に浮かぶ黒目。3歳や6歳や8歳がごろつくこの家で、薄っぺらい障子がどれだけの抑止力を持つというのだろう。
「くそっ」
腹底からの衝動に突き動かされるように椅子から立ち上がり、その辺に落ちていたパーカーをひっ掴む。綻びから山吹色のスポンジが飛び出た椅子が、ギッコ、と調子の狂ったような声を上げた。体中にまとわりつく視線を蹴散らすように乱暴に歩く。チビ達が引っ付いているのとは別のふすまから出ると、勢いよくスライドさせて破裂音を背に聴いた。
色褪せたスニーカーを踏み潰したまま、雑なリフォームで木目調のクロスを貼り付けただけのドアから飛び出した。
こんな継ぎ接ぎだらけのがらくたみたいな建物を『家』と呼ぶなど正気の沙汰ではないと思う。真ん中を走る廊下などは無く、部屋は四方八方、爛れた障子とがたついたドアで隔てられているだけだ。隔てられているーーと自分の脳が打ち出した言葉を嘲笑いたくなる。友人との電話中も、テスト勉強中も、着替え中でさえも、唐突に開け放たれるあの部屋は、もはや部屋ですらない。
それでも家を飛び出すなんてことは今まで無かった。鬱陶しさも煩わしさも気づかないふりをしていた。あんなものはーーチビ達の喧嘩や号泣や爆笑や合唱なんかはーー角砂糖みたいなもんだった。真っ黒いコーヒーに落として数回混ぜれば溶けて無くなる、そんなもの。いつもそうやって混ぜこぜにして、消え失せるのを待った。それが、実年齢よりも急いで大人にならなくてはならなかった僕の習得した習慣だった。しかし今日ばかりは駄目だった。角砂糖は溶けなかったし、僕はまだ子供だった。
昨日、窓の外が赤や茶に色づいてきたのを見て、暗いトンネルが目の前にぽっかりと口を開けているのに気づいた。
冬が来る。冬は苦手だ。草木や、動物や、川の流れが停止する冬が苦手だ。真っ暗なトンネルの中に入ったら命が停止してしまう気がして怖い。だから僕はトンネルに入る前から、もう出口を思う。目も上手く開けられないほどに眩い出口の光を思い描く。赤茶の葉が枝先から剥がれ落ちて、僕は春を見据えた。トンネルを出たら、僕は高校3年生になる。
昨夜、初めて両親に大学進学を希望していると打ち明けた。成績や判定について、そして奨学制度へと話を進めるに連れ、両親は無言になっていった。物理学、天文学というワードに至っては、固い二人の皮膚に弾かれて落書きだらけの折り畳みテーブルの上にばたばたと落ちた。
両親の口からは、想像通りの言葉が流れ出てくる。下の子達、家計、高卒、就職、近所の工場。
「りょーにぃおこられてらー!」
「わるいヤツはたいほする!」
刑事ドラマさながら手首をまとめようと絡みつく手も、背中に覆いかぶさってくる胴体も、全部剥ぎ取って捨ててしまいたくなった。この壊れた玩具みたいな家ごと引っ掻き回して捨て去ってしまいたかった。
ーーー
いつから夜空に、星に執着し始めたのかわからない。
優くん…そうだ、優くんかも知れない。
優くんとは、小学3年生で初めて同じクラスになった。家は小学校を挟んで反対側にあって、遊びに行ったりした。
真っ白で大きな壁に貼り付くように厳かな本棚が並んでいて、一番下の段には優くんの本がずらりと並んでいた。その殆どが宇宙や星の図鑑だった。
二人で床に腹ばいになって頭をくっつけて何時間も図鑑を眺めた。星を発見したら名前をつけられると知った時は心臓が波打ったし、何でも吸い込むブラックホールの画には、なにか強靭なものに対して起こるような寒気がした。
優くんは4年生になる頃、海外へ引越した。父親はきっと何か凄い仕事に就いていたのだろう。引越す前、家に呼ばれ、優くんとケーキを食べた。そして優くんの母親から好きな図鑑を持って帰るように言われた。
何冊でもいいよ、と優くんは言った。恐る恐る手に取った一冊を見て、あぁやっぱり亮太は星系かぁ、と笑った。これもこれも、と渡されて、結局5冊もリュックに詰め込んだ。帰り道、街中に夕日が満ちていた。駆け出したら華奢な肩に肩紐が喰い込んだけど気にしなかった。その痛みごと翔べそうだと思った。翔べそうだった。翔べそうだったのに。
高校生になった僕は空を翔ぶどころか、鉛の大玉ほどの重力に押しつぶされていた。地面にぎりぎりと押し付けられ、手や足にはこんがらがったワイヤーか、はたまた繁殖し過ぎた藻のようなものが執拗に絡み付いている。まるで、はりつけの刑のように。藻掻いたって足掻いたって僕は空を翔べないだろう。かつて優くんが、いとも簡単に渡っていった空を見上げて、夢への途方も無い距離を突きつけられている。
非情な木枯らしが首元をすり抜けていった。薄暗い曇天の下、歩き続けたこの体はいつの間にか、怒りの熱まで失っていたようだ。
手に掴んでいたパーカーに、無造作に頭や腕を突っ込む。折れた裾を伸ばし顔をあげると、目の前に看板が見えた。
『 田 村 商 店 』
白地に堂々と書かれた漆黒の毛筆調に威厳すら覚え立ち尽くした。ハネの力強さ、ハライの躍動感、そしてトメの潔さがこの看板を堂々たるものにしていた。その風貌に意識を預けたまま、自然と足が前に出る。急に気になり、履き潰していたスニーカーを履き直す。田村のおばちゃんのつんざくように甲高い、しかし海のように広大な声が聴こえてくる。眉間は怒っているのに、目尻は笑っているような顔まで浮かぶ。
『アンタねぇ』
『アンタたちさぁ』
その呼びかけに続くのは大抵、ちゃんと挨拶なさいだの、肌着をスボンにしまいなさいだの。あとアレだ。ビンタだ。ケツビンタ。おばちゃんは、小言のあとには必ず尻を叩いて来る。大きな破裂音と、僕達の大袈裟な叫び声と、おばちゃんの豪快な笑い声。そこまでがセットなのだ。駄菓子とセットなのだった。
看板の四文字の豪快さと、世の明暗を分けるような白黒のコントラストは、まるでおばちゃんのようだった。
看板下まで来て見上げてみると、縁が所々傷んでいた。古びた看板は、最近塗り直されたようだ。そういえば、看板だけが浮いている。窓もベンチも、店ごとごっそり沈んでいるかのようだ。静まり返って、開いているんだか閉まっているんだか判らない。いや、シャッターが開いている。店は開いている。
一年近く、前だろうか。田村のおばちゃんが亡くなったと夕飯の食卓で聞いた。見かけなくなったと思ったら入院していたのだと、そしてそこでそのまま亡くなったのだと母が言っていた。おばちゃんの代わりにしかめっ面の爺さんが店番をし始めてもう行きたくなくなった、みんなそう言っている、と弟が続けた。
痰の絡まった咳払いのような音がした。建て付けの悪い引き戸がつっかえながらも無理矢理に押し開けられる音だった。
引き戸を掴んでいる手を見る。乾燥で固くなった皮膚をしていた。やっと人ひとり通れそうなほどに開くと、その老人と目が合った。老人、という見解が揺らぐ。白髪交じりだがびっしりと生え揃った頭は、よくよく見ると案外若そうだった。この人は老人というより初老という分類に入るのだろうか、などと考えた。
男がこちらに気づき、視線が交じった。
「あ…いらっしゃい」
感情も都合も抜け落ちて勝手に唇が動いた、そんな簡単な音だった。
「あ…はぁ」
僕も彼と同じような音を出し、闇に消えゆく後ろ姿を追って引き戸の隙間をくぐった。
店内は薄暗く、奥の方で石油ストーブだけが紅くなっていた。
かつてこの店はどうしてあんなに明るかったのだろう。どうやっておばちゃんはこの部屋を明るくしていたのだろう。寒く暗いこの部屋の現状を目の当たりにすると、それは無理難題なような気すらしてくる。
ただ、壁際にずらりと並べられた駄菓子は同じだ。おばちゃんの頃と同じラインナップ、同じ並び。ということは。いつも真っ先に向かっていたあの場所を見やる。時計の真下の一番手前にはやはり、何度食べたか分からない駄菓子が置かれていた。
そこで気がついた。というより正気に戻った。僕は咄嗟にパーカーのポケットやカーゴパンツの前ポケット、後ろポケットを手当り次第まさぐった。金など持っていない。すみません、やっぱり、と唇が動こうとした矢先、
「ここ座ったら」
とおじさんが呟いた。
ストーブ近くの丸椅子に視線を落とすおじさんの言葉には、従わなくてはいけない気配が宿っている気がした。椅子の横に立ち、
「あの、すいません僕、お金が…」
と口籠りながら伝えると、
「あぁいい、いい、好きなの取りなさい」
と、おじさんは額の前で掌をひらひらさせた。
目は相変わらず伏せてあったが、口角が僅かに上がっていたので、その動きは照れ隠しのようにも思えた。
それは出来ないと言う僕と、大丈夫と言うおじさんのやり取りが数回まわった。
「じゃあ、これな」
勘定台の上から小振りの箱を持ち上げておじさんの口角はまたくっと上がった。やはり、笑っているようだ。
硬質の指が箱の蓋を開けると、中には艷やかな黒い玉が行儀よく座っていた。ストーブのオレンジ色が玉の上を楽しそうに滑っている。
「食ったことあるか」
僕は下がった目尻に首を振った。
「うまいぞ。ほれ」
突き出された箱から、端っこの一つをそっとつまみ上げた。続けて爪楊枝が手渡され、それも受け取った。椅子に腰掛け、手元を見つめる。黒い玉は、まるで小さな水風船のようで、きゅっとくくったゴム口が付いていた。このゴム口を爪楊枝でこじ開けるのだろうか。
「こう、やってな」
おじさんはゴム口とは全く別の、というより真反対の箇所に爪楊枝の先を当てた。反抗するゴム風船にめり込んでいく先端。
パチン。
あ、と僕の喉で声が弾けたと同時に、玉ははっきりとオレンジ色に生まれ変わった。いよいよ躍動して輝くオレンジ色に。貫通した爪楊枝に持ち上げられ、てらてらと光る玉は唇の隙間へと滑り込んでいった。おじさんは、小さくくるまったゴムの残骸を僕に示すように掲げながら、満足そうに言った。
「玉ようかん、よ」
僕も逃げ惑う玉に爪楊枝の先端を付けた。玉が観念したように大人しくなったのを見計らって指にぐっと力を込める。
パチン。
弾けるオレンジ色。慎重に口の中へと迎え入れる。暖かい光が食道を滑り落ち胃袋に広まっていくのを感じた。空を翔ぶことのない人生を抱えた僕に、今必要な栄養素はこれだったのかも知れないと思えた。
「美味いだろう」
はい、と頷く僕の顔を確認すると、おじさんの視線は残りの6つの玉の上に降り立った。
「家の菓子なんだよ。実家がね、これを作ってる」
僕は思わず勘定台の上に置かれた菓子箱の蓋に目をやった。
「あとを継ぐのは俺だと思ってたんだけどねぇ。色々あって。弟が継いだ。」
色々、とはどういう…と聞き返しそうになって、やめた。もうその部分についての話は終わったかのように深く頷き続けるおじさんを見たら、訊けなかった。訊かずして、鉛の大玉のような重みと、はりつけの刑のような屈辱をひし、と感じ取った。
「でもようかんに罪はないからな、美味いから食うって、ただそれだけのことよ」
いつの間にか一段階暗くなった店内を見た。カラフルなはずの駄菓子のパッケージは色が抜け落ちたように曖昧に翳り、オレンジの光だけをまとっている。そして目の前のこの人も、和菓子屋の夢抜け落ちて駄菓子屋となったこの人も、ただのオレンジ色をしている。きっとそれは僕も同じで、自分の色味のようなものを燃やしたり輝かせたり出来ない人間は、同じように抜け落ちてただ外界の色をまとうだけなのだろう。
「夢は叶わないもの」
思いがけずこの口から走り出た言葉の着地点を見失い、焦る。
「なのでしょうか」「だと思いますか」「なんですね」など、脳の中で点滅し合う候補の間で揺れる。
「んー」
おじさんは、深く息を吐くように、それでいて何処か深い場所を歩くように声を漏らした。
「んー。あれは確かに夢だったけどねぇ。今はもうかすんじゃったよ。今は今の、もっと大事な夢が出来たからなぁ」
今度のおじさんは、それは何ですか、という僕の質問を待っているように見えた。
「それは、何ですか」
「うん。死ぬことよ」
「え」
「いや、早く死ぬことかな」
「それが夢…」
「そう」
面食らう僕の前で、おじさんは穏やかに微笑んでいる。その真意の根源を掴みたくなったが、その探究心もあまりに自然な笑顔に吸収されていく。
「ほれ、もう一個」
僕は言われるがまま、半ば放心状態で手を伸ばした。玉の側面に爪楊枝を当てる。今度の玉は逃げ惑うことなく静かに先端を受け入れた。
パチン。
「ここのおばちゃん覚えてるだろ。居なくなってもう少しで一年になる。絶望ってこういうものかとひしひしと感じるんだよ。別に生きなくてもいい世界を惰性で生きてな。
早くあっちに行けたらと思うのに、朝は容赦なく来るんだよ。色の付いてない朝がなぁ」
僕はねっとりとした練餡を口内で練りながらおじさんを見た。
「でも死ねない。途中で放っぽったらさ、ケツ叩かれそうだろアイツに」
腹が大きく痙攣した、と思ったら練餡が鼻腔へ突き上げてきた。口を手で抑えながら咳き込む僕に、
「あいやー坊主!鼻に入ったか」
あいやー、の掛け声が可笑しくてさらに腹が痙攣する。なんとか口の中を飲み込んだ。
アンタねぇ挨拶は元気よくでしょ、と大声と共に掌が飛んできた放課後を思い出した。衝撃をなんとか体外へ追い出そうと叫ぶ。おばちゃんの甲高い笑い声が追いかけて来る。
記憶の中のおばちゃんにつられて思わず笑う。
「な、凄かったよなぁアイツのケツビンタ」
おじさんの盛り上がった頬のてっぺんが光を集めた。
「だからな、最後まで生き切って死ぬことにした。それが今の夢。
叶ったらそのときは、」
おじさんの夢が叶うときーーと想像したら急激に温度が下がった気がした。
「おじさん新種の星になるから見つけてくれよ」
笑うべきところかと思い笑おうとしたら、急に視界がぼやけていった。笑い疲れた爽快感のような、孤独がつついて来た時の寂しさのような、どうしようもなく湧き上がる決意のような涙は、次々と零れ落ちて、やがて止まらなくなった。おじさんはずっと無言でそこに居てくれた。
今月も七屋糸さんの #月刊撚り糸 に参加させて頂きました。
「もしも夢が叶わないなら?」なんて、想像するだけで苦しくなってくる。そこに人間という動物の本能やさがが見える気がしました。
今月も素晴らしいテーマをありがとうございます。