聖夜、祈りて #2021クリスマスアドベントカレンダーをつくろう

私が黒猫だった頃、飼い主は四人家族だった。父親と母親と息子が二人。
母親は毎晩、騒ぐ子らをなだめすかしながら絵本を読み聞かせていた。私も布団の上で丸くなって耳をすませた。
中でも、よく読まれていた絵本が『100万回生きたねこ』だった。あまりに何度も聞いたので一言一句覚えてしまった。
その猫は死んでもまた生まれ、別の一生を繰り返す。100万回もだ。つまり『死ねない』猫なのだった。彼にとって命はあまりに退屈で無意味なものだった。
しかし最後、この猫はある猫と出会い、愛することを知る。二人は共に暮らし、子を育て、老いていった。ある日、愛する猫は隣で冷たくなっていた。猫は初めて泣いた。泣き続け、泣き続け、最後、冷たくなって死んだ。もう二度と生き返ることはなかった。そういう話だった。
母親がページをめくると、私の喉はぐっとつかえて鳴らなくなるのだった。私は金色の目でただただその猫の大粒の涙を見つめるのだった。

この『100万回生きたねこ』とは、私のことかもしれなかった。私は大体そのくらい生きていた。正真正銘、私は死ねない猫だったのだ。生の先には死が、死の先には生が、一本の線上にひたすらに繋がり並べられている。その直線から私はどうやっても逃げられないようだった。
できることなら死んでいたかった。死は暗く温かく無で、しかしそれはトンネルのような構造になっていて、必ず出口が来てしまうのだ。きつい光の中に投げ出されると、どうしようもない落胆が私を襲う。
とりあえず、私は毎回毛色を確認し、一人つぶやくのだった。
「今度はブチか」
「今度はミケか」
「今度はトラか」
「今度はクロか」

そして、八百屋の猫になったり、老夫婦の猫になったり、野良猫になったりする度に、いつもあの暗いトンネルを思った。常にあそこに還りたかった。形にとらわれず、漂い、流され、満たされる場所。懐かしく愛おしいそれを思い返しながら、私は吹き荒ぶ雑多な町を歩く。雨や風やーーまぁそんなものはうざったいだけだったがーー人に構われたり無下にされたりする時間は、なんとも非生産的で煩わしかった。この世はあまりに退屈で無意味なのだった。

経験値は確かに上がっていた。前回の人生で学んだことを今回の人生で生かせたのだ。結果、私は人の心を読めるようになっていった。文字も読めるようになった。しかし特筆すべきはやはり、未来を読めるようになったことだろう。生と死とが繰り返される線上に、過去と未来と私自身も乗っているわけで、それらがすべて繋がり見えるようになったのは、考えてみれば当たり前のことかもしれなかったが。

私の低い鼻筋には、裂けたような古傷があった。これだけは毛色が変わっても人生が変わっても変わらずにある。ある時、顔が痒くて掻いた際に、右手が傷の凹凸に当たったことがあった。
すると途端に、額の裏側一面に、真っ白な猫が浮かび上がったのだ。透き通るような水色の眼をしていた。よく見ると、その猫の鼻筋にも私と同じ傷があった。
私はその回の人生を短く終えた。乾燥した血がこびり付いた茶色いぼろ雑巾のような体でトンネルに滑り込む瞬間、額の裏側にふっとある感覚が過ぎった。いつか浮かんだ白猫はもしかしたら来世の自分かもしれないと感じたのだった。清らかな白色に生まれたことがなかった私の胸は僅かに膨らんだ。トンネルを通過し、乱暴に光の中へと投げ出されると、私は真っ先に毛色を確認した。
「やっぱり白だ…」

商店街に沿った裏道を歩いている時だった。木枯らしに吹かれて、鼻筋の古傷が疼いた気がした。右手で擦ると、ある男の顔が弾けるように飛び出した。前回の人生で私の尻尾をライターで炙った男だった。ギリギリと押さえつけられ、何度もやられた。ライターの着火音は今でも苦手だ。
するとそのあと数十秒して、前方から見覚えのある小汚いスニーカーが向かってくるのが見えた。慌てて家と家との隙間に隠れた。履き潰されたスニーカーが、目の前を過ぎていくのを息を潜めて見つめた。痛めつけられ傷だらけになったけれど、十数年生きなければならない人生を五年ほどで終わらせてくれた男だった。

「ママ…」

乾いた落ち葉が鳴り、私は顔を上げた。目の前に、色白の少女が立っていた。年の頃六つほどだろうか。

「かわいいねこちゃんがいる。まっしろな…」
え?と覗き込むようにして、母親らしき女性が顔を出し、影を被った私を捉えた。
「ねこちゃん、」
少女は細い脚を折り畳み、私の方へ細い指を差し出してきた。
「駄目よとわちゃん、逃げちゃうよ」
母親は娘を制したが、娘はその手をさらに伸ばしてきた。私も一切逃げなかった。
この子だと思ったからだ。今回の人生、添うことになるのはこの子だと直感したからだった。
「きっと、だいじょうぶ…」
彼女は初め、遠慮がちに私の痩けた頬に触れ、安堵するとその指先を私の鼻筋にそっとずらした。
「これは…いたいの?」
傷口に彼女の体温がじんわりと染みてきて、あらゆるものが見えた。
その少女にも傷があった。それは、私のものよりもずっと大きく裂け、縫い閉じられていた。そして、彼女はそう長くはなかった。この母親は知っていた。彼女自身も不安を感じていた。この二人は、気遣いというしっかりとした、けれどあやふやなもので支え合い、ようやく立っているようだった。

連れて帰りたい、首輪付いてない、ちゃんとお世話する。畳み掛けてくる言葉に一旦は閉じかけた母親の心が、『お友だちがほしい』という最後の声に、ちり、と揺れるのが見えた。彼女は私の鼻筋を一瞬見て、わかった、と頷いた。

ーーー

枯れ葉が砕け散って粉のようになり、風に吹かれて宙を舞い、やがて極微細な、ほとんど透明な粒子となって町中を覆う頃、とわはあまり起き上がれなくなった。私たちは毎日ベッドの上で過ごすようになった。
とわは大好きな甘いホットミルクを残すようになった。しいちゃん飲んで、と私の口元にマグカップを傾ける。甘く、白く、温かい中に彼女の笑顔が溶け込んでゆく。
「コップからのんだの、ママにはないしょね」
そして、今度はけらけらと笑い出す。
「しいちゃん、ついてるよ」
彼女はその指でそっと私の鼻筋を拭った。
とわの指先は驚くほど冷えていて、私の鼻先もそっと冷えた。
母親はよく桜の話をするようになった。お花見にはおいなりさんをもって行こうね、川沿いの桜並木がとってもきれいだから行こうねと繰り返す。彼女の心は、ほんの小さな揺らぎで欠け落ちてしまいそうなほど脆くなっていた。

夕刻、眠るとわの横で目が覚めた。窓の縁が薄っすらと白く覆われていた。私は座り直して窓枠に切り取られた世界を見据えた。粉雪が居場所を探しながらそれぞれに舞い降りていくのが見えた。明日にはきっと、一面真銀だろう。
窓辺に置かれた小さなクリスマスツリーがほのかに光っている。点っては消え、消えては点って。

この時期になると人間が浮かれ、色めき立つことは知っている。町中が大袈裟に華やぎ煌めくのも知っている。常々鬱陶しく思っていた。欲しいものをここぞとばかりにねだる姿も、途方も無い夢に祈る姿も。12月24日という何でもない日を“聖なる夜”と名付け、あらゆる欲望を正当化する姿も。実に浅はかだと思っていた。
人間というものは、現実と向き合えるほど強くない。弱さを抱えながら厳しい世を生き続ける、その絶望を背負い込むにはやはり脆すぎる生き物なのだ。だから彼らは夢を見てしまう。目に見えないものにすがってしまうのだ。

隣に横たわり小さく息を繰り返す少女に視線を落とす。彼女もまた消え入りそうな吐息の中で祈っていた。

嗚呼。
私はいつからこんなに、人間臭くなってしまったのだろう。いつからこんなに、脆くなってしまったのだろう。

平々凡々な一夜を“聖なる夜”と身勝手に名付け、ただひたすらに祈りを捧げようとは。
無力な己の小ささに限界を覚え、得体のしれないなにかにまで懇願しようとは。
その祈りが天を突き抜け現実をひっくり返すとまさか本気で信じようとは。

私は熱を帯びた右手の先で冷えた古傷に触れた。額の裏に広がった少女の未来はやはり、どんどん濃度を失って、平たく薄く伸びたあと、力尽きたように途切れていた。

私は右手にぐっと力を込めた。

夜が深まっていく。
町が白くなっていく。
静寂が広がっていく。


神よ。

数多の生死を繰り返してきたこの心臓と引き換えに、
病や困難に勇んで打ち克つための不屈の賜物をこの少女に与えたまえ。

願わくば、この子に神のご加護を与えられんことを。
はじめにありしごとく、今もいつも世々に至るまでーー。



ーーー

光に背を向け永遠のトンネルに滑り込む瞬間に、私は最後鼻筋に触れた。

「ママ、しいちゃんは?」

差し込む朝日、よく通る声、階段を駆け下りる音、艷やかに光る頬、揺れる毛先、上向きに伸びた睫毛。
そんなようなものが見えた気がした。


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去年に引き続き、こちらの企画に参加させていただいております。

百瀬七海さんの #2021クリスマスアドベントカレンダーをつくろう


人生で初めて小説に挑戦したのがこちらの企画でした。『やりたいという気持ちを尊重』という七海さんの言葉に勇気をもらい、書き始めたのを覚えています。
その七海さんの温かみが、冬に灯るクリスマスと重なり合って、私の中に記憶されています。今年も素敵な企画を、ありがとうございます。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!