たった五文字の連なり
彼女は私より多分、五つは上で、十程は離れていない。
いつも控えめな色味の服装で、いつも控えめな声で笑う。
彼女とは、たまに二人一組で業務を行うこともあるし、たまに休憩室で一緒になることもある。
彼女は、職場の先輩だ。
彼女は、不思議だ。
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彼女はいつも、「ありがとう」と言う。
ほんのちょっと、質問に答えただけで。
ほんのちょっと、荷物を持っただけで。
目尻の緩んだ瞳で真っ直ぐに私の目を見て言う。控えめで柔らかな中に、一本芯の通った声で、優しく噛みしめるように言う。
まるで、心の底から感謝が湧き上がってくるかのように。
ほんの少しの行いが、とても尊く掲げられてる気がして、その度に私は「え、そんな…」と曖昧な笑みで濁してしまう。
するとまた彼女は、真剣な笑みであの五文字を繰り返すのだ。
まるで秋風を遮るブランケットをふんわりと掛けるように。
こんなにも心に沁み入る「ありがとう」を私は知らない。
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積もり積もる疲労と、すり減ってく時間と、煮えたぎるストレスにまみれるのは水曜の夜。
泣き声と叫び声と怒鳴り声がぐちゃぐちゃに混ざって、空間を埋め尽くしていくのは日曜の朝。
少しでもうつむいたら、ついつい溜息をついたりしたら、くらりとバランスを崩して真っ逆さま。そんな綱渡りのような毎日だ。
または、ぐわりぐわりと転がってくる今日をなんとか乗り切って、また転がりくる今日に寝ぼけ眼で飛び移る、玉乗りのような毎日か。
平日は、朝七時を過ぎたら家を飛び出す。
グズる次男三男をバタバタと車に乗せて、二つの園を周る。渋滞に巻き込まれながら、一時間半かけて帰宅すると、出勤と同時に出そうと思っていたプラスチックゴミの袋が玄関から無くなっていた。
夜勤明けで帰宅していた夫に、「ゴミ出してくれたのー?ありがとう〜」と言うと、
「ん?何のこと?」と返ってきた。
そこで初めて気づいた。
長男が出したのだ。
母が弟たちを登園させている時、父がまだ夜勤から帰宅していない時、小学校へ向けてたった一人で家を出る彼が、何も言わずに玄関からゴミ袋を持っていったこと。
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ありがとう。
その言葉を私が長男にかけるとき、私はどこを見ていただろうか。
私は何を見ていただろうか。
きっと、食器を洗いながら、洗濯物を畳みながら、掃除機をかけながら、言っていたのだと思う。
視線はいつもこの手元に忙しくちらついて、きっとうわ言のように言っていたのだと思う。
その言葉を、彼はずっとひとり、拾ってきたのだろうか。私の背後で、静かに。
私が足元にぼた、ぼた、と落とすその言葉を、拾っていたのだろうか。
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口先から簡単にぼたっと落として、手渡したつもりになっていた。
あの人の、「ありがとう」がなぜ特別なのか分かった気がした。
彼女の素朴な五文字が、なぜあんなにも胸に沁み入るのかが分かった気がした。
私は静かに手を伸ばし、テレビを観ている長男の髪の毛にそっと触れた。
さっと振り向く彼の頭を静かに撫でた。
「今朝、ゴミ出ししてくれたの?」
あぁ、うん、と答える彼の肩を抱き寄せて、髪の毛を撫で回す。
ケラケラ笑いながらくねくねと逃げようとする彼を、離すまいとさらに強く抱き寄せて、私は言った。
「ありがとう。」
彼の黒い瞳は照れ笑いのかたちをして、なかなかこちらを見なかった。
この五文字の後に、「いつも、いつも」が隠れていること、彼は気づいただろうか。
この五文字がたっぷりと、「ごめんね」を含んでいること、彼は気づいただろうか。
この五文字にしっかりと、強い愛情を込めたこと、彼は感じただろうか。
彼にはちゃんと、伝わっただろうか。
たった五文字の連なりに、特別な息を吹き込んだ母の思いが。
こちらの企画に参加しました。
2009年、結婚当初によく耳にしたこの曲。
自分の父母を想像したこの曲が、自分の子を想像する曲に変わっていくとは思っていなかったあの頃。
メロディーと共に、自分の過去と今をうつろいで奥深くを見つめることが出来ました。貴重な体験をありがとうございました。