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蛍売り


「いい色してるねぇ、これまた」
くぅ、とのけ反ったその人の頬骨を、お天道様が照らしている。
僕は、ふ、と笑った。

「これとこれとこれな。来週来るか?トマトがいいな。でっけぇやつな」
手渡されたざるに茄子、人参、胡瓜を入れながら、あ、はい来ます、と答える。
来週ならトマトもいい頃合いだ。

夏の日差しか、おっさんの掌か、小さく頭を下げながら掴んだ小銭はぬくかった。
「今年は猛暑だな。おめぇもそんなもん刈っちまいな。みてるこっちがあちぃわ」
顎でくいっと僕の頭に指図すると、おっさんは草履で砂利を擦り鳴らしながら去っていった。
肩掛け袋に小銭を突っ込もうと下を向いた瞬間、汗で濡れた前髪が、瞼に貼り付いた。前髪から垂れた雫は瞼を這うように線を引きながら、まばらな睫毛の先にぶら下がる。蝉がせわしなく鳴いている。

「全部戦争のせいよ」
弱々しい声が、耳の奥を通過していった。

母は、ずっと寝床にいる。
戦争は、母から父を兄を夫を奪っていった。彼らは全てばらばらに散り、同時に母も散ったようだった。食べるものが底をつき、弱り果てた体でお腹の子を産み落とし、体を患い精神を患って、そうやって母は散ったようだった。

もうここ数日間、水と薬しか飲んでいない。冷ややっこを黙々と喉に流し込んでいたひと夏前の母を思い浮かべるだけで苦しくなってくる。

豆腐屋に寄って帰ろうと、古びた荷車を押し始めると、それはきいぃがたん、と大きく揺れた。その反動で、汗の粒が睫毛の先から振り落とされた。静かな開放感も束の間に、すぐまた別の鬱陶しい粒が瞼を滑り降りてきてぶら下がった。
首からかけた褪せた手ぬぐいで拭きながら歩き続ける。

荷車の上で小ぶりな西瓜がコトコト動く。ムロイさんが試しに包丁を刺すと、ぷつっと弾けてそこから一気に真っ二つに割けた西瓜だ。うわぁいい色、これは売れるよ、と高声が響いた。小ぶりだけれど甘みが強い。

おかあさん、ねぇ、すいか、と女の子の声が飛んできた。
また今度ね、と片付けられて諦めきれないその子の眼差しは、ゆっくりと荷車を押す僕の顔へと移る。
視線が交わった瞬間、んぐっと喉が締め上がったような鈍い音がした。この反応に見覚えがある。思わず口にしたえぐみに喉元が硬直したような、この反応を知っている。

子どもの手の強張りに気づいたか、母親もこちらを見る。僕は咄嗟に目を反らした。不自然に大きく迂回して足早に通り過ぎる親子の姿から。

「全部戦争のせいよ。お前の目がそんななったのも。母ちゃん栄養取れなくて。」

僕の瞼は、だらりと下がっている。ムロイさんの皺や垂れなんかとは比べ物にならない程に、溶けたように爛れたように、ぶら下がっている。
その瞼を隠そうと伸ばした前髪がさらに視界を奪って、僕の世界はいつも暗い。いつも影をぼんやりとかぶって狭い。

おっさんが褒めた人参の色も、ムロイさんが唸った西瓜の色も、僕にはよく分からない。

ーーー

母とふたりで、沢が流れる林の中に住んでいる。
母親がどうやってあの家にたどり着いたのかは知らない。親戚か誰かが世話してくれたのかもしれない。ぼろくて頼りない木造の家だ。
ぼろくて頼りない、というのは最近知った。林から出て野菜を売り歩くようになってから、うちが大変に貧しいのだと知った。

幸運だったのは、ムロイさんが居たことだ。
ムロイさんというのは70くらいのお婆さんで、うちの近くに一人で暮らしている。ムロイさんの家も、うちと同じようなもんで、雨漏りがしたとか隙間風が辛いとか、よくそんなことを話した。
代々林の中で畑をやったりして暮らしていたが、「こんな奥まで赤紙が来て、夫も息子も連れてかれた」そうだ。
姪のみどりさんがたまに町からやって来て、薬や肉を持ってくる。チョコレートの板が入ってることもある。ムロイさんはみどりさんが帰ったあと、毎度毎度うちに来て、薬や食べ物を横流ししていった。
「すみません、いつも、」
と頭を下げながらも僕が腹を鳴らすので、いつもムロイさんは笑った。
「もういつ死ぬか分かんない婆さんが食べるよりずっといいわな」
とカカカカ笑うのだった。

ーーー

「ひで、あんた何歳になった」
ふきのとうを掘り起こしながらムロイさんは優しい目をした。
立ち尽くす僕を見て、
「もう14くらいじゃないかね」
ふきのとうを編みかごに放り投げ、よいしょ、と曲がった腰を反り返してから、ムロイさんはこっちを真っ直ぐ見た。
生まれてから14回も季節が巡った気はしなかったけど、なんでも知ってるムロイさんがそう言うならきっと僕は14だった。

「そうだ、あんたに野菜教えるか。ここ耕して、自分の畑にしな」

あれから、毎日畑の世話をして、いつの間にか僕は15になった。ムロイさんがふきのとうを放りながら14だろうと言ってから、毎年ふきのとうが芽吹くと僕はひとつ歳をとることになった。


母が最近夜に咳き込んで苦しむので、薬を飲ませたり塗ったりしている。うちには薬を買う金もない。もちろん、ムロイさんが「あんたのお母さんが使ったほうがいいから」と横流ししてくれたものだ。字が読めない僕も、セキドメだけは読めるようになった。

母の咳が響かなくなり鎮まった沢で、手ぬぐいが泳ぐのをただ眺めていた。
ひで、と呼ばれて振り向くと、ムロイさんとみどりさんが手を振っていた。僕は立ち上がって頭を下げる。

「林の夜は意外に明るいねぇ」
みどりさんが言った。
「売るだけいるねぇ、蛍」
「蛍を。売るんですか」
「売ってるよ、町じゃ普通だよ。一晩5円くらい稼いでるんじゃないかな」
「5円って。大工の日当が3円なのに。」
僕はあのおっさんのひとり言のような世間話を思い出した。
「本当よねぇ。あんな虫のほうが価値があるなんてね。人間て変よねぇ」

二人が立ち去ったあと、手ぬぐいを絞って辺りを見回した。
売るほど飛びかう蛍の灯りが、僕の中を照らしていった。

「母ちゃん、母ちゃん、」
暗がりの中、薄っすらと開いた目を覗き込む。
「母ちゃん、僕、蛍を売ろうと思う。一晩5円にもなるって。昼は野菜売って、夜は蛍を、」
ゆっくりと閉じていく瞼。きっと僕の喋り声が、母を疲れさせてしまったのかも知れない。

だから母ちゃん、表が暗くなってきたらセキドメをちゃんと飲んでよ、枕元に水と置いとくからね、と用意していた言葉を呑み込んで、やっぱり蛍を売りに行くのは母に薬を飲ませてからにしようと思った。

ーーー

蛍売りは思ったほど甘くはなかった。

蚊帳で作った虫取り網を使えば、蛍は結構捕れたけれど、飛んでいかないようにと木箱に入れて運んでいると、町につくころには結構死んでいた。
僅かしか売れず、木箱を逆さにしてざらざらと死骸を捨てるときが一番虚しかった。

捕り方や入れ込み方、運び方等を工夫すると、死骸の数は結構減った。減ったけれど、やはり死ぬものは死んだ。

寝ようとする子らの蚊帳の中に放してくれと言われたこともある。捕まえようとはしゃぐ甲高い声を背に家路についた。歩きながら、今頃あの子らはゆらりゆらりと飛び交う光の中で眠りについたろうかと思うのだった。

客寄せのために、店の前で放してくれと言われたこともある。木箱から舞い上がるその奔放な灯りに、不思議と人は惹きつけられるようだった。店の前は大いに賑わった。


ある夜、木箱を乗せた荷車を押していると、恰幅の良い男に声をかけられた。
庭で蛍を放してくれという。
僕ははい、と頷くと、男のあとをついていった。
暗く狭い視界の中で、浴衣の裾から規則的に見えるふくらはぎをただ追った。
ふくらはぎのやや内側にある不自然に引きつった窪みに気づいてからは、その窪みを追った。

他の家の軒下を通り、勝手口の前を通って、やっと着いた男の家には、垣根で囲まれた箱庭があった。

「蛍売りがいたから」
男は一言、それだけ奥さんに言うと、どかっと縁側に腰掛けた。奥さんは一瞬戸惑ったけれどすぐに愛想よく会釈をし、奥に引っ込んでいった。

「全部。全部放してくれ。」

僕がすうっと木箱の蓋をずらすと、まるで玉手箱の煙のように光が立ち昇っていった。
蛍はやっと自由になれたのに、なかなか垣根を越えずずっと箱庭のなかを漂っていた。
あとは金を貰うだけだったが、目を細めて光を見上げる男を見たら声がかけられなかった。少し緩んで潤む瞳と眉間の深いしわがあまりに不揃いで、喜んでいるのか泣いているのかわからなかった。

「ご苦労さま、麦茶どうぞ」
柔らかい声がして、瞼の影をずらすように視線を上げると、奥さんは麦茶をこちらに差し出したまま、蛍に気を取られているようだった。箱庭一杯に揺れる灯りをその目に映し、立ち尽くしていた。そしてやはり、男と同じ目をしていた。

「弟がいたんだよ。戦争で死んでな。俺は足に玉食らっただけだけども。あいつは死んだよ。
蛍が好きでな、ちっちぇ頃はよく、俺と弟とこいつと捕りにいったもんだ。工場だ車だって町が汚れてもういなくなっちまったけどな、昔はここら辺にもたくさんいたよ。」

奥さんが口元を覆った。

「こいつは弟と好き合っててな、結婚したがってたけど結局死んじまったんで、親同士が俺たちを結婚させたわけだ」

男の穏やかに光る瞳は、僕の知らない世界を見ている。

「でもな、生きてるだけで十分だろ。なぁ坊主。その他の色々はな、なんとか都合つけてやってくんだよ。俺らは生きてんだから。なぁ。」

まぁ飲んでけと、奥さんの震える手から取ったコップをこちらに突き出して、男は僕の目を真っ直ぐに見た。
頭を下げながら渡した空のコップと引き換えに、小銭が何枚も掌の中に押し込まれた。

ーーー


その夜、僕は家に帰ると、寝たきりの母を見つめた。
このやつれ果てた体の中で心臓が動き、血液が巡っているなど、信じられなかった。まるで散り落ちて地面に横たわる花弁のようだった。

咄嗟に蚊帳網を掴み取ると、僕は走り出した。家を飛び出し、沢まで走った。そして大きく息を吸うと、力いっぱい網を振り上げた。腕がちぎれそうになるほどに振り続けた。汗が噴き出して、垂れ下がる瞼にぶら下がっては頬に落ちた。それは涙の粒を道連れに、大きな粒になって速度を増し、ぼたぼたと落ちた。

「母ちゃんっ、母ちゃんっ、見てっ」

どたどたと部屋に上がると、網を大きく開いて大量の蛍を全て放した。
開放された光はまるで、重力や重圧などとは無縁であるかのように軽やかだった。痛みや恨みなど知らぬような清らかさだった。
母は薄らと目を開いているように見えた。口はほんの少し開いたように思えた。

蛍は舞う。子らの寝付く蚊帳の中で。弟が駆けるあの箱庭で。母の散りゆくこの部屋で。

一なんとか都合つけてやってくんだよ。俺らは生きてんだから。なぁ。

男の声が、耳の奥で深く響いた。

ーーー

「ムロイさん、行ってきます」
「おう。気ぃつけな、ひで」

胡瓜にトマトに茄子、そして西瓜。ぐっと体を斜めにすると、がこんっと荷車は進み出す。林を出ると一気に太陽が近くなる。
だいぶ前にふきのとうが芽吹いて僕は16になった。金勘定をしているからか数字はわかる。今年は少し、字を読めるようになりたいと思っている。

蛍売りはもうやめた。
ある薄暗い夕刻にやつれた女がやって来て、焦点も定まらないまま蛍が綺麗だと泣き出したもんだから、空き家があるからここに居ろと言ったのだと、そんな昔話を聞いたから。



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!