噛み砕かれたせんべい
18時。
もう辺りは真っ暗だ。
木枯らしが、暗闇が、冬の手を引き、連れてくる。
仕事から帰宅し、ハンドルを握って保育園へと急ぎ、子供の様子を聞きながら使用済みパンパースをバッグに押し込み、チャイルドシートに括りつけたら、グズりながら激しく宙を切る小さな手を消毒し、ぱっとせんべいを握らせた。
どさっと運転席に腰掛けて、気休めばかりのカフェラテを喉に流す。
カフェインの香りが、眉間の辺りまで立ち昇って揺らめいた。
カーラジオの音量を上げる。ゆっくりとハンドルを切って路上へ出ると、徐々にアクセルを踏み込んだ。
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ラジオを聴き始めたのはここ一年程度のこと。
自分では聴かないような、選び取らないような様々なジャンルの最新楽曲が聴けるので気に入っている。
この夜も、アメリカヒットチャートNO1に躍り出た話題曲が流れていた。
その音の連なりは耳から入り、脳を撫で、鼻腔から流れ出ていった。メロディーは鼻歌になり、心地よい空気になった。
思えば、私の半生、数々の洋楽が耳をくすぐり、脳を撫で、鼻腔から流れ出ていった。
ハンソン、スパイスガールズ、メイシーグレイ、エリカバドゥ、ポーラコール、ジャミロクワイ、オアシス、クレイグデイビッド、ジャネットジャクソン、ノーダウト、クリスティーナアギレラ、ピンク、アリシアキーズ。
他にも数々の、数々のアーティストの歌が、音が、色が、私の中を巡っていった。
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信号待ちの列の最後尾に繋がった。
闇に赤が反射している。
後ろから、せんべいをかじる音がする。
カフェインの余韻が消えている。
イントロが流れてくる。
息が止まった。
あぁやめて欲しい。
何十年も前の曲など。
始めないで欲しい。
その声で歌わないで欲しい。
その歌詞を奏でないでほしい。
銀河鉄道の夜
僕はもう空の向こうに飛び立ってしまいたい
あなたを想いながら
Outdoorのリュック、Converseのスニーカー、GAPのパーカー。
白い壁、シングルベッド、濃紺の絨毯。
立ち尽くしたホストファミリーとの壁、孤独を連れて通ったハイスクール。
早打ち出来るようになった国際電話番号。
同じクセ字の手紙の束。
太平洋を飛び越えたCD。
孤独な夜を乗り越えようと必死に捉えた一言一句。日本語は容赦なくずたずたとこの胸に上がりこんでくる。
がぶりと頭から呑み込んで、脳にぎゅうと絡みついて、肺にばさばさ降り積もった。それは、鼻腔から流れて空気になんかならなかった。
隣を歩いた四年間が、眩く駆け抜ける夏空が、凍えながら渡った真冬の鉄橋が、何度も塗り直したソックタッチの香りが、私の高校には無いブレザーのネクタイが、
お盆帰省で見かけた後ろ姿が、可愛らしい女性の横顔が、ベビーカーをゆっくりと押す手の甲が、
ばさばさと降り積もった。
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青緑色に充満した視界。
右足が、アクセルペダルを必死に探す。
左ウィンカーを、慌てて出す。
堪らず肺をちぎって穴を開けたらすー、と細く酸素が入っていった。
ぱりん。しゃくしゃく。
後ろの方から、軽快に砕かれるせんべいの音がした。
こちらの企画に参加させて頂きます。