交差点
交差点の一角に立ち、煌々と光る真っ赤な人型を恨めしく見ていた。
その横に点滅する目盛りの数は、まだまだ青信号にならないことを意味している。
あともう少しで受付時刻を迎える小児科は、この横断歩道を渡ったすぐ目の前にあるというのに、この距離を今すぐ縮めることを社会のルールは赦してくれない。
はぁ、と交差点の角に苛立ちを吐き落とした時だった。
目の前のその病院の正面入口が開き、よたよたと半ば足の機能していない女性が、男性に支えられて出てきた。歳は私とさほど変わらない。三十代だろうか。
二人は、何とか交差点まで来ると、私の対角線に立った。
ひゅーんひゅーんと行き交う赤や黒の自動車が過ぎ去ったあと、再び姿を見せた彼女は、泣いていた。
車道を挟んだこちらにまで聞こえるくらい、大きな声で泣いていた。隣の男性に体重を半分以上預けた形で。男性は細身の体で彼女の体重をぐっと支えていたが、それ以上のなにかを支えているのは、顔を見ればすぐに分かった。
途方に暮れたように虚ろな瞳は一点を見つめて、それは一度もぶれなかったからだ。
ぱた、ぱた、と一個ずつ消えていく目盛りの減りがやけに遅い。
赤い人型がふっと消え、鮮やかな青い人型が現れた。
私は道の向こう側へと、ゆっくりベビーカーを押し進めた。二人は道のこちら側へと、バランスを時々崩しながら近づいてきた。交差するその瞬間、無意識に私の足は速度を緩めた。真っ直ぐ前を見つめるふりをして、全神経が私の右半身に寄る。
私の右半身はじっと二人を見ていた。
相変わらず男性は、無気力なようで力強く一点を見つめ、女性はうわーんわーんと子供のように声を上げて泣いていた。目をぎゅっと閉じたまま、その微かな隙間から涙を溢れ溢れさせながら、彼女は交差点を渡りきった。全身を彼に預けて。
かたかたん。ベビーカーは静かに揺れて継ぎ目を乗り越え歩道に上がる。私は一度だけ、小さく二人を振り返った。
脇目もふらず、よそ見もせずに、私の視線など気にもかけずに、彼女は一心に泣きながら去っていった。交差点には、あの泣き声が溶けていった。
私もあんなふうに泣けていたらよかったのだろうか。
次男を乗せるベビーカーをぼんやりと眺めながら押しながら、私の心はそう呟いた。
私の足は、慣れたように病院の自動ドアをくぐる。
受付時刻を数分過ぎていた。
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その病院には、小児科だけでなく、婦人科や産科もある。むしろそれらがメインで、多くの女性が妊娠出産関連で通院している。出生前染色体検査、アフターピル、無痛分娩、不妊治療。院内の待合室には、あらゆる用語が並ぶ。あらゆるものを抱えて座るあらゆる女性たちの間を、静かなオルゴールの音色が流れてゆく。
自宅からほど近いこの病院で、私は三度出産した。
次男の妊婦検診の時だった。
診察台から降りて、身支度を整え、椅子に座ると、目の前に先程撮影した白黒写真が映し出されていた。指差して、医師は言った。
ここに、二つ、お部屋が見えますね。うん、双子ですね。
ふたご、ふたご…、と何度か頭の中でこだまして、その後の医師の言葉は曖昧にしか記憶していない。
確かにお部屋は二つ、白く、見えた。
夫は喜び、夫の母はとても喜び、私の母は迎える忙しさにもう急かせかした。
周りの人達が様々に色づいていくのを、私はお腹に手をあてながら楽しく見ていた。
二週間後、同じ診察室の椅子に腰掛け、私は慰められていた。映し出された一枚の写真には、白い部屋が映し出されていた。
が、それは一つだけだった。
もう一つの部屋は、どこにいってしまったのだろう。
もう一人は、一体どこに消えてしまったのだろう。
ねぇ…?と、私は残された一つのお部屋に語りかけた。
よく…あることなんですよ…。ヴァニッシングベイビー、消えゆく胎児と呼ばれる現象で…片方だけ、吸収されていったりするんです……でも…お母さんお父さんにはぜひ…この残された子には…消えていった子の分まで幸せになってほしいと…前向きに思っていただきたいと……。
え、…はぁ、はぁ…はい……と、脳が誤作動を起こしながら相槌を繰り返して、特になんの言葉も質問も口から出て来ずに、私は静かにありがとうございましたとだけ言い、診察室のドアをぱたんと閉めた。
私はふらふらと自動ドアをくぐり、ふらふらと交差点に差し掛かった。
双子の赤ちゃんは、片方の子が消えていました…
無気力に握られたスマホのLINE画面には、その一文だけが浮かび、夫の笑顔のアイコンとの温度差が際立っていた。私は交差点を渡りきると、虚ろな瞳で送信ボタンをタップした。
その瞬間、
あの子はもう二度とこのお腹の中に帰って来られなくなった気がした。
交差点のはるか上の、もう手が届かないほどにはるか遠くまで行ってしまった気がした。
曇り空の雲の上まで。
いや、曇り空じゃなかったかもしれない。
空なんて見なかったもの。
この目に映ってたのは灰色のアスファルトだけだったもの。
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生まれてきた次男は、人一倍、育て難かった。
倍の頑固さと、倍の意地と、倍の正しさと、倍の体力と、倍の愛情を、本人も持て余しているようだった。
そのうち、次男を追いかけるように三男が産まれ、三人の男子を育ててみても、やはり次男は特別大変な子だった。
それでもふと、厚く広がる雲の一瞬の切れ目のようにふと、思うときがある。
これはあの子の分なのかもしれない、と。
あの子の分の頑固さと意地っぱりと清らかさとすばしっこさと愛情深さなのかなと。
二人分だから仕方ないのか、二人分だから特別大変なのかもしれない、と。
そんな時は空へ舞い上がったあの子がそっと、雲の切れ目から私を見てる時なのかもしれない、などと思ったりした。
そんな現実離れした空想話に気休めを見出したりした。
液晶をタップしてあの一文をひゅんと飛ばした瞬間に、空に飛びゆくあの子を力なく見送ったのは私だったのに。
あの子を手放したのは私だったのに。
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この話は、次男に話す日は来ないかもしれない。
彼に片割れがいたこと、そしてその子が早々に去ったことを話す日は、来ないかもしれない。
でも、胎内で確かに共に過ごしたあの子の体温を、ふと彼が感じるときはあるのだろうかと、
あの子の素質や気質をも背負って生まれてきたような彼に、あの子がそっと寄り添う日はあるのだろうかと、
そんなことを聞いてみたくなる夜がある。
私のこのお腹の奥には深い宇宙が広がっていて、そこには二人のまほろばが確かに存在していた。
ただ哀しいけれど、その宇宙は、空の上の宇宙に直結していたみたいなんだよ。
やるせないけど、どうもそういうものらしいんだよ。
あの時、声を上げて泣けていたらもう少し違うなにかが見えていたのだろうか。
泣いて喚いて抵抗していたら、あの子は飛び去らなかったのだろうか。周りの目や体裁などを気にせずに、この子への情だけをしっかり抱いて泣きわめいていたら、あの子はずっと、側にいてくれたんだろうか。諦めずにいたら、またこのお腹に戻ってきてくれたんだろうか。
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自宅からほど近いあの交差点を、私は毎日通過する。
私があの子の手を離してしまったあの場所は、彼女がどうしても離せないと離すまいと泣きじゃくったあの場所だ。
あの交差点のアスファルトには、あの日の彼女の涙が染み込んでいて、あの交差点の遥か上には、飛び立った我が子の軌跡がすーっと一本伸びている。
私のお腹から果てしない宇宙の片隅まで走った一筋のそれは、まるで飛行機雲のようで、彗星の尾のようで、あの子の小さな足跡のようだった。
夜中にふと、「彗星の尾っぽにつかまって」のメロディーに寄り添われて蘇ってきた記憶を書きました。