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日本人(語)はハイコンテクスト文化(?)  論理的な英語、非論理的な日本語

いろんな場面で出てくるけれども、語学学習に関連しても出てくる「日本人(語)はハイコンテクスト文化、英語はローコンテクスト文化」という話。
本当かなと思う。

少し前の「ゆる言語学ラジオ」を聞いていてその話題が出てきてなるほどと思った。

結局のところ、島国の日本では大多数が日本の義務教育を受けて同じテレビ番組を見て育って、共通の知識ベースが広いと言うだけなのではないかという気がする。
長年連れ添った夫婦で旦那さんが「おーい、あれ」と言ったら、夫婦間では合意ができている「あれ」が出てくるようなもの。「あれ」は爪切りだったり、任天堂スイッチだったりするのだけれども。

人種のるつぼであるニューヨークではそれは期待できない。(混ざり合わないからるつぼではなくサラダボールだと言っていたのは誰だったか)

同じように育った来た日本人同士だから、わかり合っているはずだと思い込んで、なので逆に質問するのが憚られたり、結果分かったつもりになっているけれども実際には分かっていないということは普通にたくさんある。

社内文書の英訳などしていてときどき思うのは、これって何が言いたいのか全く分からない。いや、何も言っていない。ということ。
問題なのは、その日本語を読んでいた私も、英語に訳そうとするまではそれが何も言っていないことに気づいていなかったということ。

確かに、英語に切り替わった後は、論理的かどうかと吟味するスイッチが入るような気もするけれども、でもそれは(本来は)言語に紐付いた話ではないと思う。

英語ができるようになってから、自分の書く日本語が論理的になった気がする。それは会話においてもそうである。
論理的に日本語を書く・話すというトレーニングが為されていないだけで、日本語でも論理的に書く・話すことは当然にできる。
英米人にだって、訳の分からない英語を話す人はいくらでもいる。

言わなくても分かってくれるというのは楽である。
大昔に国際結婚について考えたことがあったが、子どもの時のあの多くのテレビアニメや歌謡曲や駄菓子の情報を共有していない人と結婚するって大変だろうなと思った。
口下手な私は話題に困ってしまうのだ。

言わなければ通じない。前提が異なっている、共通するところがないというところからスタートすれば良いのである。
「夫が『愛している』って言ってくれないんです」
「いちいち言わなくても分かるだろ(怒)」

しばらくぶりに妻に「愛している」などというと、浮気を疑われてしまうのが日本の夫であるけれども。


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