海外でのサバイバルのために笑いをとる
海外生活も15年となり、それは全て企業派遣で、安定した身分であったのだけれども、振り返ってみると現地の人との関係構築に笑いが大きな役割を占めていたなと思う。
笑いのツボが違うので空回りしたこともあったけれども、ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たるで、ひたすら笑いを取ろうとしていた。
最初の海外となったイタリアへの留学。聞くも話すもままならなず、授業内容もよくわからない。
そんな時でもやれるのは、ダジャレと体を張った笑い。
外国に行くとまず覚えるのは罵りの言葉など、お上品ではない口語表現、あるいはムフフな表現。
真面目な会話をしている時に、わざとそのような単語に聞き間違えてみせることで、相手は一瞬固まり、笑い出す。
これなら言葉が不自由な時でもできる。
体を張った笑い。
授業中眠かったこともあり、サロンパスを細切りにして両目の下に貼ってスースーさせていた。
あるいはポンポン肩たたきを授業中に使っていた。
これらが日本の素晴らしい発明と話題になり、日本からサロンパスやポンポン肩たたきを大量に取り寄せることになった。
そのうち普通に気の利いたことが言えるようになってくる。
(気の利いたことを言おうとして昨日聞いたことを言ってしまったことも)
そしてイタリア人から、シンパティコとか、スピリトーゾとか、フォルテとか言われるようになる。
対面でやってる分には体を張ったお笑いもできるが、リモートだとなかなか難しい。
こちらにきてからイギリスの気難しい(面白味のない)おじさんと月に2回電話会議をずっとやっていたのだが、一度出張時に会った後はずっとリモート(音声だけ)。
しばらく経ってから『You are funny』と言われた時は『やった!』と思った。
その後はスムーズに進んだ。
(もちろん仕事に対する真摯な態度は大前提)
なんだかんだでユーモアのセンスは大事。
日本語でもずっとオヤジギャグを垂れ流している私。
子どもの時からオヤジギャグを..
子どもはみんなダジャレが好きだ。子どもの時のなぞなぞなど、ほとんどダジャレである。
シェイクスピアの作品だって、ダジャレの塊りだ。(聞いた話では)
ダジャレと言うと地位が低いから、言葉遊びと言ってみようか?
子どもの時は好きだったのに、いつからダジャレを言わなくなるのだろう。どうしてオヤジはオヤジギャグを言うのだろう。
昔々、多分糸井重里さんの本で読んだと思うのだが、なぜオヤジはオヤジギャグを言うかについて、次のようなことが書いてあったと思う。(うろ覚え)
オヤジギャグと言うのは、人の話の腰を折る。よって失礼なことである。
であるから、若いうちは、目上の人が周りにいる中でそれはできない。
自分がオヤジになって、周りが若い人ばかりになると、ようやく言えるようになる。
と言うわけで、人の話の腰を折るのが失礼だとわかる年齢でひとはダジャレを言わなくなり、十分にオヤジになったところでオヤジギャグ(と言う名のダジャレ)を再び言うようになるのである。
途中、あいだが開いてしまっているので、その間の進歩が無く、内容が幼稚なことがオヤジギャグとディスられる要因でもある。
それに対して私の場合は途中途切れることなくずっと言い続けているからレベルが高い。
それはそれとして、ユーモアという日本語はどこから来たのだろうか。
英語なら「sense of humour」
先日書いたが、日本人もHの発音ができなくなったか。
「センスオブヒューマー」と書くと「ヒューマー」が「ヒューマン」に繋がっているようで、人間性の一部だなと感じる。(気のせい)
とは言え、human も日本語的に「フマン」と呼んでしまうと、不満を持つのは人間として避けられないのだなと思う。(意味不明)