島崎藤村『初恋』連想
京都市の街を歩くとき、当たり前の日本さが感じられる。私は、比叡山などのやわらかな自然と寺社などの複雑な構造物の調和はちょうどひらがなと漢字が織りなす日本語の調和とよく似ていると思う。私は文学に夢中になることはほとんどないが、時々しびれるような文学に出会い、美しい日本語の調和をみて、そのたびに京都市を想う。
そういえば川端康成の『古都』を読んだ時、冒頭に出てきたマリア観音という言葉が印象的であった。マリア観音は、江戸時代のキリスト教禁令下に隠れキリシタンが観音菩薩像に見せかけてつくったものだ。観音は慈愛の象徴でふっくらした体軀をもつことから、ときに母親と結び付けられる。すなわち「マリア観音」とは宗教を渡った上手いマッチングになっているのだ。
日本の情緒に西洋思想に基づくストーリーが介在するのは面白い。たとえば航海技術の発達に伴ってイエズス会が世界を渡った中世。はじめて歴史の授業でこれを聞いたとき、私は異質を感じていた。それは他民族の流入による忌避意識という話ではなくて、結局のところ、西洋文化に触れた日本人の中にはキリスト教を受け入れた者もたくさんいただろうが、日本の東洋哲学をがらりと書き換えるぐらいにはならなかった。西洋の影響がたったこれだけ…?と思っていた。私はマリア観音を知るまで、古くに西洋思想へのいきいきとした人間の信仰があったことを知らなかった。
私は島崎藤村の『初恋』を読んだとき、いきいきとした西洋思想が入り混じっている、と思った。
この林檎は『創世記』のアダムとイブがいた楽園の林檎と同じ重さを持っているように思う。詩に登場する女性は狡猾な蛇に騙されてしまうイブのように純粋無垢だ。このような対応が見られながらも、外国文学を思わせない、れっきとした日本文学であることは間違いない。
私はこんな理屈抜きにしてこの『初恋』が好きだが、こういう連想ができるからもっと好きになったのである。また『初恋』は音として気持ちが良い理屈あって、この話もまたどこが出したいと思う。