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希望と、反抗

「いま、希望ってある?」
帰省したときにたまに会う、幼なじみに聞かれた。いまでも仕事に行く途中とか、たまに思い出す。円環的な繰り返しの毎日の中で、いまの自分に希望はあるか。

近い未来の楽しみならある。
給料が入るとか、週末に飲みの予定があるとか。

とりあえずの目標も、ある。
仕事のスキルを上げるとか。

でも、そうじゃなくて、。
希望とは、そのことを考えると気持ちが軽くなるというか、身体に力が入るというか。

自分にとっての希望は、ものをつくることだ。

『真面目の上をどこまで登っても真面目にだけ乗っているのを優等生と呼ぶなら、字のごとく既存の等級の内。つまり、そのニーズは今やAIに向かっている。これらは何といっても自立ができない。
 真面目上に乗っかる不真面目、これでは長いから、仮にエフマジメと呼んでみる。(中略)
 感情的衝動だけでの事ではない、純粋な熟考の下地が当然存在している。デザインとかセンスとか技術とかにすっかり飽きている自分は、あの日「あッ」と思わされた。この先の未来を見ようとした時に、エフマジメは馬力ある方法となるはずだ。』曽田耕

組織に属さず、在野でものをつくること。
それは、既存のシステムに対する反抗である。

曽田耕という作家に、とても惹かれている。
彼は独自の路線を突き進んでいるからだ。
カラフルな革を張り合わせた靴は、いまのシンプルでスタンダードな流行とは真逆を突いている。継ぎ接ぎだらけのバックは、かなり派手だ。
でもなんだこのカッコよさは。
彼は毎日、嬉々として作っているらしい。靴作りで出た革の端切れはゴミにせず、ムリやり縫い合わせて小物をつくる。ところどころ穴のあいた革も、裏から別の革をあてて繕い、気にせず使う。

もし、流行りに従ってシンプルなものをつくろう思うなら、きれいな一枚革が必要だ。
はじめに設計図を引き、思い描いた通りのものを実現しようとすれば、傷ひとつない立派な材料が必要となる。

一方彼は、そこにある材料に従ってものをつくる。
自らのデザインを実現するために、材料を利用するのではない。自分のセンスを誇示するために、何かをつくるのではない。
優先するものが自分ではないんだ。だから彼のつくったものには嫌らしさがなく、素朴で純粋で無色透明なんだろうな、あんなにカラフルなのに。

『物もやっぱり自立しているんでね、技術とかセンスとかに依存している物ってやっぱり弱い。人工知能にとって代わられるような危うさがあるし。
(曽田さんは、)絶対方程式がないですから。
だから人間に意味がある。』星野若菜(F/style)

どうでもいいんだろうな、世の中の価値観とか。彼の視線の先には、なにか明確なものがあるのだろう。愛がなんだのテルコのように。

自分にとって大事なものが、明確にあること。
そうすれば、ほかのことはどうでもよくなる。

『(焼き物の窯詰めをしていて、)はみ出しているお皿のその入らない部分をぽりっと折ったんです。折って、すっと入れたんです。おかしいでしょう笑。それで「これでよし」みたいな感じ。それでいいんだーって。
要するに問題をいま、その場で解決する。
今できることでやってしまう。』曽田耕

軽いんだよね。
ものとしての温かさがあるのに、軽さと共存している。全身全霊でつくっているのに、重くならない。

圧倒的な謙虚さを感じる。
彼は、ものをつくることはどこか他人事だという。夢の中の自分の指示に従って、手を動かしているだけだという。その距離感が緊張感を生み、自我を消し去り、恣意的にならないことで、他者からの視線に耐えうるものが出来上がるんだろう。

『それでね。
新作発表するしないの事なんだけど、センスいいね、だけではうまくいかないんです。素晴らしいアイデアがある、だけではだめ。
潤沢な資金があるから、そのプロダクトがうまくいくわけではない。あつーいオモイがあるからいいんだ、でもない。昼夜問わずがんばった、でもない。
つまり、主体側の事だけじゃない。表現者側の能力だけポツンと存在してもうまくいかない。
受け取り手、いや、通りすがりぐらい―つまり社会かな―、そっち側の気運や気分と、まさかの連動が在る。
大きく見れば世界平和、社会不安だってその運動法則内。モトのカクが在り、社会の気分が在り、連動がある。 

それでさ。(中略)
ポップアートの事をおもった。ポップミュージックの事をおもった。企業の事をおもった。議会の事をおもった。
そして、自分自身の近況に照らし合わせた。衝動が先ずあって、やっているという宣言、これダという発表、セットなんだね、と。表現を閉じた空間で作っていても、まだ表現未満。他者がいたとはねえ。 
これに気づかされた昨今でありました。 』曽田耕

作り手個人で閉じていないんだな。作業場で黙々とつくっていても、そこだけで完結していない。受け取り手、だけでなく社会の不安や世界平和とまでつながっている。

自分の仕事は、社会的な意義があるのだろうかと、よく考える。
でも、誰も政治と無関係に生きることはできないように、社会から孤立した仕事というのもないのかもしれない。

彼のように独自の基準をもち、世間の価値観にとらわれずに在野でものづくりをしていても、その仕事は社会と連動している。ひとりで黙々と作業をしていても、その行為は他者とつながっている。

自分が決して孤独ではないと気付けば、勇気をもつことができる。

『まあとにかく不真面目っていいなっていう気持ちがあります。でも不真面目って一応ネガティブな言葉で、我々が受けた教育では叱られる言葉だったりしたわけだから、まあ挑戦的というか。自分は確かに真面目だけではダメだな、ダメって言っちゃいけないですね、真面目以外もけっこう手はあるな、と思えてしょうがないので。』曽田耕

真面目以外にも手段はある。既存のレールの上を歩く以外にも、生きる方法はある。
それを不真面目と呼ぶなら、自分なりの不真面目さを持って、大いに反抗し続けたい。

それは他者と社会とつながる行為となるはずだ。

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◎最近のてってさん

曽田さんの展示会でサンダルを買いました。試着したら足にぴたりと合う、不思議な感じがしました。軽くてかわいくて、無意味に部屋のなかを歩いています。馴染んだら外に履いていきます。

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