美容師ウルマの超失敗人生談
こんにちは。
100歳まで趣味美容師ウルマです。
昨日はサロンワークを
早めにお終えて
先週のリベンジで
鬼滅の刃を見に行って来ました。
映画館に着き、
事前に購入していたチケットを発券。
いよいよ始まる
ワクワク感を胸に
席に着くとそこには
他のお客さんがすでに座っているんです。
そして、
よーく発券した券を見ると
日付けが今日になっている。
1日間違えて購入していたことに
その時気づくという大失態をかまし、
家族から危うく
全集中のヒノカミ神楽で
斬り刻まれるところでした。
最悪のミスをかましてしまいました。。。
というわけで、
今日のテーマはコレ!
失敗を乗り越えて前進したら
それが自分の生き方になっていた。
僕自身の自己紹介を通して
書いてみたいと思います。
今から、さかのぼること、、
41年11ヶ月と4日前、、、
1978年12月29日
神奈川県鎌倉市の宇留間家に生まれました。
父はサラリーマン。
母は理容師。
私、7つ下の弟
2人兄弟の長男として育つ。
小さい頃から理容師の祖父が大好きで
髪はいつも祖父に切ってもらっていた
そんな祖父と毎晩一緒に寝ていたおじいさん子。
将来の夢は「じいちゃんのような職人に
なること」でした。

母が理容師で、実家の近くにある
祖父がいる理容室で働いていたため
学校帰りは、理容室に帰るという毎日だったのです。。
悪さでは済まないありえない小学生
ですが、、、
小学生の頃は本当にふざけた人間でした。
たとえ自己紹介だから、自己開示が大切だと言っても
こんな所に書いてはいけないことを沢山してきました。
反省しています。
過去の事実は変えることはできないけれど、
その事実を受け止め、反省し、原因を改善し、
次につなげていきます。
こんな小学生になる前の、はじめの頃の記憶は
家の前で、当時あぶない刑事というドラマの撮影クルーの
車に自転車ごとひかれたこと。
右手を少し怪我した程度ですんだ代わりに
新しい自転車をその方々に買ってもらったことを
覚えています。
しかし、この出来事がきっかけとなり、、、
たしか、日テレで16時から再放送していた
「あぶない刑事」を見る事が学校から帰って
まずすることになりました。

柴田恭平さん、舘ひろしさんの
2人のコンビが醸し出す
雰囲気に憧れを抱き、、
ドラマのセリフを覚えては
見ながら喋ることが趣味でした。
きっと、いや絶対、、
あぶない刑事の影響で、、、

小4で吸ったタバコ「キャビンマイルド」によって
毎年10センチほど伸びていた身長も
この年だけは1センチほどの伸びしか見せることは
ありませんでした。。。
小学生の頃は絵を描く事も大好きでした。
上履きを書いた絵が新聞に乗ったことで
調子に乗っていたんだと思われます。
ドラゴンボールの世界観が好きで、
悟空の絵を書いていたことも覚えています。
そんなこともあり、ある時、筋斗雲に乗る夢を見ましたが、
今考えると乗れるわけはない小学生でした・・・
数々の悪行をきっと、
忘れれてしまっていたのかもしれません。
だからなのかもしれませんが・・・
かまいたちに遭遇しました
小学校5年の頃、ある壁から柵の上をジャンプした時でした、、、
着地した際に違和感を感じました。
なんと、左の太ももの内側がパカっと
避けるようにキレていたんです。
お見せできなく残念ですが・・・
きっとばちを頂いたんだと思います。
焦って、ちょうどその時持っていたスケボーに乗り
目の前にあった祖父の理容室まで帰り、
救急車を呼んでもらい、病院で何針か縫うという経験をしました。
痛みもなく、ただキレてるだけという
不思議な体験でしたが、
それを説明するには
“かまいたち”という真空に触れることで切れるという現象?
存在のせいにするしか考えられなかったのです。
こればかりは、漫画の中の話のようで
今でも不思議に感じます。
ソフトテニスに生きた学生時代
中学になると再従兄弟が入っていたという理由で、
ソフトテニス部に入りました。
その中学1年の時の忘れられない経験があります。
先輩がメインの大会に1年生を2名(1ペア)
出れるチャンスがあったんです。
その選考をかけた練習の際に、
ワザとミスをするような事をして、
挑戦することから逃げました。
その結果、当然選ばれることはなく、
その行為はずっと、自分の中に
残ることになった経験となります。
しかし、中学3年間を没頭したことで、
高校でも続けたい、全国大会に出場したい
と思うほど熱中し、夢中になっていました。
中学3年の夏休みに、家にいた際に友人から
たまたま誘われて見に行った
横浜市の高校生のソフトテニスの大会がありました。
そこで強かった学校を見て、
その場でこの高校に行きたい、
この部に入りたいと即決していました。
その後、その高校が男子校だとか、
まあまあ遠いなど、わかっても
意思が変わることはなく、結果そのまま3年間、
部活に専念することとなりました。
3年の時はキャプテンをしましたが、
1番手で強いキャプテンではなく、
補欠だけど、キャプテン。
そんなポジションで、
強い同級生、そして後輩、
顧問の間に入り、バランスを取るような活動でした。
誰よりも練習だけはしましたが、
最後の夏を前に補欠にまわることになりました。
今でも覚えている大事な試合での負けは、
さらにそこから前進するための経験なんだと学んだ気がします。
その経験を経て最後の夏にインターハイに行けたことで、
部活動に注いだ6年間の大変さが報われた気がしました。
全校大会に参加したことで、上には上がいるということを
肌で感じれた事が高校時代に得た貴重な経験かもしれません。
願い、行動を続ければ、実現すると、
この経験で少し感じる事が出来た
中高の6年間だったと感じます。
毎朝早朝にJR鎌倉駅から1時間半以上かかる高校に通い、
帰りは23時前に駅に帰る生活の中で、
朝、駅にいるお勤めの方を帰りの電車で
一緒になることが多くありました。
そこで思ったのは、僕は部活の3年間だけど
お勤めの方は、ずっとなんだと、僕には出来ないと
感じたことを昨日のことのように覚えています。
そうそう、、、
小4で止まりかけた身長ですが、、
高校3年までのうちに
どうにか奇跡の回復を見せた身長は
171センチまで伸びてくれました。
ある意味、、有言実行
その後、祖父の影響も大きく、
何も考えずに理容師を目指し、
理容師を志しますが、入学後すぐの5月で退学しました。
学校生活と、刈り上げの技術練習を
大変過酷と感じた事が理由でした。
自分で入りたいと決めたことなのに
とりあえず免許を取るまででも、、、
という考えさえも実行できない18歳だったのです。
決めたことなのにすぐやめる、そんな男でしたが
やめると決めたことを速攻で
実行する男でもありました。
そこから居酒屋の調理場のバイトに
精を出すことになります。
いわゆるフリーターとなりますが、
その調理場のバイトが自由な環境だったこともあり、
楽しんで、協力して場を作るという経験をしました。
同級生がそのバイトにいたということもあり、
揚げ物、刺身、焼き物、洗い物、など、
オーダーのタイミングから、
他のバイトメンバーの動きに合わせて、
お皿を用意するとか、
準備を互いにすることで、
それぞれが単独で動くよりも、
互いのことを考えフォローし合うことで、
効率よく場が流れることを感じる経験をとおし、
間接的接客という概念が
自分の中に生まれたことを覚えています。
また、この経験はのちの人生で、自炊する時に
とても大きく役立ったことは間違いありません。
フリーターになり半年が過ぎ、
このままではいけないと、
考えたある日のことでした。
ある時友人が、美容室に行った後に会ったのです。
そして、その時の変貌ぶりに心が動く経験をしました。
ハサミの造形や、自分の髪が非常にくせ毛な事が、
当時の悩みだったこともありましたが、
その友人の変わりように、美容師の仕事って、
間接的にも人の心を動かせるんだということに感動したんです。
髪を切られた人が素敵に変わるのはもちろん、
その周りの方の心も動かす事が出来るって
すげー事だと純粋に思いました。
それをきっかけに、やはり髪を扱う仕事がしたいと、
美容師の道を目指すことになりました。
そこから美容学校を探し、たまたまバイト先にいた
美容学校に通う先輩のアドバイスをもらい
地元鎌倉にある美容学校に通うことになったのです。
そのタイミングで、地元にある美容学校に行ったことも
その後の人生を大きく左右する人たちとの出会いが
たくさんあるとは知らず。

美容師に挑戦させて
もらえたことに感謝しつつ
美容学生の時の大きな経験は、
当時、カリスマ美容師ブームの影響で、
美容師がもてはやされていたこともあり、
マスメディアの影響でアクアという美容室に
見事に憧れた事です。
当時は木村拓哉さん主演の美容師ドラマもあったりと、
なりたい職業ランキングで男女ともに1位という状況に
なっていました。
また、深夜にはカリスマ美容師対決番組、
シザーズリーグという、毎週月曜23時からは
美容師、美容学生たちが釘付けになるような
tv番組もありました。
そこに出ていた人気のサロンには、
そこで働きたい全国の美容学生が殺到するほどです。
そんな中、アクアに入りたいと抱いた思いを、
至る所で喋るようになりました。
その話を聞いてくれた地元の先輩が、
ご友人に話してくれたところ、
当時のアクア青山店の店長さんに
髪を切ってもらっているから、話してあげるね。
ということで、
アクアの店長さんの携帯番号が書かれた紙をいただき
直接会いに行かせていただく事が出来ました。
ただの美容学生だった僕にとっては
ミラクルすぎる体験だったのです。
ある日の営業後にお店に来てとお時間を作っていただき、
青山の焼き鳥屋さんに連れて行って頂きました。
そこで、見知らぬ、ただの美容学生の話を聞いてくださり、
アクアのビジョンを聞き、そんな美容師さんに憧れました。
その後は、なんども予約をしお客として通い就職活動をしました、
自分で作ったヘアスタイルの写真などを持ち込み、
働かせてほしい、入社したいアピールを続けました。
その結果、2000名が応募し、40人が採用となる
その年の新入社員採用面接が行われる前の夏休みに、
内定の連絡をいただく事が出来たのです。
絶対に入りたいサロンとして、目標が出来たときに、
その目標を達成するために出来ることを、
階段を登るように一歩ずつ進めば、叶う
という経験をする事が出来た事が、
美容学生の時に経験できた何よりも大きな出来事でした。
出会い、そして付き合い
しかし、その美容学校に行ったことで
出会った一人の男に僕のその後の人生は
大きく影響されていくことになります。
その学校の一つ上の学年にいたのがコウノヨシキ氏でした。
実際は、僕が一度理容学校に行き、辞めてからだったため
年は同じでしたが、学年は一つ上という出会いでした。
彼の行動力、そして実行実現力に何度救われ
何度勇気をもらったことか、一生分の恩をもらったことは
忘れることができない出会いとなったのです。
「辛い時こそ上り坂」当たり前のことを言ってる
この言葉から多くのことを学ばせてもらいました。
その関係はアクアに入ってからも続いていくことになるんです。
そして、入社したアクアという美容室、
その中でも、3人いた経営者のうちの1人に
綾小路竹千代氏という美容師がいました。
その美容師に憧れ、その人のもとで働きたいと思った事が、
僕が20歳の時にアクアを目指したきっかけでした。
自分がどう行った部分に惹かれたというと、
けしてヘアスタイルのデザインではありませんでした。
どちらかというと、その美容師さんの考え方に触れ、
心が動いた事が、大きな理由でした。
お客様の気持ちの変化に気づける美容師でいるためには、
自分の心が感動しやすい状態になっていなければならないとか、
愚痴じゃなくて、意見に変えようとか、
今日練習しないと明日が変わらないとか、
とても、美容師さんからなかなか
聞かないようなことを聞くことが多かったです。
今振り返ると、当時の美容師が言ってなかったこと
マインドセットを発信して、美容師の価値を、
パーマやから、ヘアサロンに
アップデートしようとしていた事を感じることが
少しできるように思います。
あらためて思うのは、ノウハウやテクニック以上に
考え方や、いわゆるマインドセットがまずはじめに
必要なことである。と学ばせてもらったんだと痛感する
自分にとってはとても貴重な経験でした。
そんな目に見えない部分のエッセンスを学びながら
実際は毎日同期と切磋琢磨する日々でした、
最高に忙しかった日が12月23日の祝日で、
1日に200名近くのお客様がご来店されるようなサロンだったんです。
そんな日々の中で、チームで動く事で、
ヘアデザインを担当することを学びました。
そして、自分にとって一番の財産となったことも
この時に見つけることとなります。
それは、アクアの同期です。
ひとりでは、諦めてしまうことも
仲間がいたから乗り越えられた。と心から言える
体験をしました。
それはライバルでもあるし、
仲間でもあり、戦争に行ったことはないけれど
戦友と言っても過言ではありません。
そんな仲間と、切磋琢磨、試行錯誤する日々を
通して、美容師として、必要なことの多くを
お客様、先輩、環境、などから学ばせていただく時でした。
サロンワークはいわゆる大型サロンならではの分業制です。
1年目はシャンプーマンとして、1日9時間
ずっとシャンプーだけに追われます。
最高で1日に65名の方のカラーシャンプーをするような時代でしたが、
同期と、切磋琢磨しながらも、日々の中で起こる様々な課題を
ゲームのように変換し、厳しいことも楽しさに変え
ともに乗り越えていくことを学びました。
あれから20年ほどとなりますが、
今でも、毎年新年会と称して集まり、
あの日のシャンプー台の話で盛り上がる事が出来ます。
自分の人生において、アクアで経験したことは美容師として、
また人として大切なことを学ばせてもらう事が出来たことが
とても貴重な体験となったのです。
早く先輩のように活躍できる美容師・スタイリストになりたくて、
誰よりも早く店に行き練習し、
誰よりも最後まで店に残り、練習しました。
それがいいかどうかは置いといて
今日、日本の美容師の中で1番俺が練習してる!
などという勝手な妄想の元、
何度もなんどもカットの練習をしてきました。
そんな自分だったこともあり自分に厳しく、
その分後輩にも厳しかったのです。
アクアという名前に守られていることに気づかず、
これだけやってるんだから、という気持ちが
どこかに芽生えてきていた頃でした。
ですが、その3年半の中で何度も、やめたいと挫折し、
バックれたこともありました。
ある時はバイクで、お台場に逃げ、
そのままやめてやろうと思ったこともありましたが、
そんな時は、同期や先輩に支えられて、もう1度やろうと、
チャンスをもらい踏ん張りながら練習の日々を重ねていきました。
その結果、当時では最速の3年半で、
スタイリストデビューのチャンスにたどり着きましたが、
その先の不安から、その目指してきたスタイリストデビューから
逃げるように辞めてしまいました。
結果を出せなかった時の自分が、怖くなり
挑戦をしていないのにも関わらず、逃げてしまいました。
逃げても逃げてもまた奴らはやってくる
逃げてると自分で認めれない中、仲間と原宿に店を始めますが、
結果、半年で潰してしまうことになります。
そこから5年間ほど、自分の夢から逃げるように
様々なサロンを15店舗ほど、入らせていただいては辞め、
本当に、どうしようもない迷惑をかける日々を繰り返す中で、
日雇いのバイトもしながら食いつないでいきました。
自分がしてきたことを反省し、
それをポジティブに変換し、前進して
間接的ながら、迷惑をかけた方や、業界、社会に貢献していかなければと思いつつ、、
今感じるのは、その時の自分は誰かの人生を
生きていたんだと思います。
人と比べ、自分の道を探し、決めようとしていました。
だから、正しいことを探し、もがいていたんだと思うんです。
そんな中でも美容師への想いは無くならず、鏡がしサロン、ご夫婦のサロン、
大型チェーン店、福島県のサロンへ半年逃避行、地元のサロン、
日給型サロン、などなど様々な形態のサロンを経験した結果、
もう1人で好きにやれるような形でやるしかないという決断に至り
自分で全てやろうと覚悟し、1人サロンを始めることとなりました。
こんな日々の中で、きっと徐々に思っていったんだと感じます。
誰かの人生を生きるんではなく、
自分の人生を生きることを選べと。
そうすれば、周りから見て正しいということを
探し、選ばなくてよくなります。
自分の楽しい、やりたい、ワクワクする
それを基準に選択、決断する事が出来るようになる。
そんなことに気づく事が出来たんだと思います。
これと、決めたらやってみないとわからない。
この感覚をずっと持っていました、なので実践することで
自分の本当にやりたい事の輪郭が明確になっていくということを
体験させてもらうことが出来ました。
自分の人生を生きる覚悟は
後からしか気づけない
お客様を選ばない限り、選ばれることはないという
一見するととても身勝手な考え方のおかげで

28歳の5月1日に独立し、
ひとりサロンを2008年9月9日にオープンし、
自分が理想とした全てを1人でやるヘアサロンを始めました。
この時、祖父がくれた言葉が
その後の僕にとってなくてはならない
言葉となりました。

容・技・修
情熱を持って頑張ろう
今年で100歳になる現役理容師の祖父ですが、
14歳から仕事を始め75年仕事をしてきた祖父が
一番言いたかった言葉がこれなのだと思うと、
人生を生きるうえでおそらく一番大事な事が
自分のやることに情熱を持てること、
そんなことを教えてくれたように感じます。
「情熱を持って今を生きろ!」と
サロンに飾ってあるこの色紙は私の宝です。
家族を持ったことで
学んだこと数しれず
その後に迎えた30代は、家族を持つことで
得ることとなった経験と、
サロンで倒れ、このままでは100まで美容師をしていけないという
ことに気付けたことが大きな変化でした。

家族を持つことで、家族のコミュニケーションが、
全ての根底にあるということを数年かけて体験していきました。
1人の時はモノへの憧れや、執着が大きかったように思います。
憧れもあり、こだわり楽しんでいましたが、
ある時ふとした時に、このままではなんかいけない気がした時があったんです。
そんな気持ちの変化を自分なりに敏感に感じる取った後に、大きな変化がありました。
自分の心の声に従ってきていたつもりではいましたが、
振り返ると結婚の時ほど、心の声に従ったことはないかもしれません。
この経験から家族の中で生きるということを
考えることが増えていきました。
家族とのコミュニケーションは自分の課題の一つでした、
この経験自体が、自分の人生に欠けてるものであり、
必要なことだと思えるようになっていったのです。
そして、サロン営業時間を増やすことを考え
営業時間を10~22だったものから
10~24時に伸ばしました。
倒れて気づけた
本当の自分の思い
そして、ある朝激しい頭痛と、吐き気で
サロンで倒れました。
サロンの営業時間を24時までにしてから
半年ほどたった頃だったのです。
数日サロンワークができなかったことで、
正直このままではいけないと、将来の不安を感じました。
もともと、独立の時点で祖父のように、
100歳まで現役を目指して始めたこともあり、
倒れたことで、このままのカタチでは
100歳までする事はできないと感じました。
諦めず、意図し続ければ
探し物は見つかることを
体感しました。
このから、自分の問題、課題として、
家族との関係に課題があり、それが原因で夫婦喧嘩が
なくなる事はありませんでした。
その原因の一つとして、自分自身の親との関係の
エレルギーのたまりのようなものを通すことが、
現在目の前にある課題をクリアするということに
妻の協力もあって気づく事が出来ました。
父は他界していますため、
母、弟、私の家族3人で改めて時間を共有しました
その経験は初めてに近い集まりでしたが、
それまで思っていたことを交換出来たことが
とてもよかったんだと感じます。
多くのことを話せたことで、
自分の中でも自己開示、自己受容、
出来ない自分を認めるという感覚を実感として
持てるようになる貴重な時間となったのでした。

その集まり以来、それまで以上に自分らしく
いいも、悪いも認めれる自分になれているんではないかと
思えるようになったのです。
これらの経験を通して感じているのは、
やはりコミュニケーションの原点は家族であり、
そのさらに、コアなところは、自分自身との会話であり、
リトルウルマの心の声を自分がちゃんと聞き
実現していく事なんだということを体験から学びました。
その自分自身の心の声に従ってきた結果、
これまで自分の天職だと思ってきた
美容師としてのサロンワーク同様、
WEBのマーケティングというものに出会いました。
マーケティングと聞くと硬いですが、、
簡単にいえば、自分のことを知ってもらう活動のことです。
それを、WEB、インターネットと、
デジタルを介してする活動のことです。
美容師と同様
没頭出来る事が見つかった
やっぱり、美容師も長くして行きたいけど、
今しかない家族との時間もしっかり増やしたい。
という思いを自分で描くようになっていきました。
それは自分の本当にしたい生き方とは?
という問いを自分にするようになったからです。
このWEBをとうして自分を知ってもらう活動は、
僕自身にとってとても
必要な事だったんだと思っています。
なぜなら、自分のことを深く
知ることに繋がっていったからでした。
その活動の中で、一番大変だったことは
自分と向き合うということでした。
自己分析をするという事は
それまでの人生でもそこまでしたことはなく、
本当の自分が何を思い、考えているのか、
そんなことと向き合う日々は、
なかなかシンドイものがありました。
その頃の自分は、素直さが欠落していたこともあり、
始めは、何度も挫折しました。
自分のことを知らなかったから、
自己紹介も、過去のことも
何か表面的なことしか
見えてなかったように思うんです。
それは、当然結果として発信する事が出来ず、
諦めそうになる日々でしたが、
やはり、人は1人では乗り越えられなけれど、
仲間の存在や、誰かのためにという思いにエネルギーが
あることで、さらに循環を起こす事ができる。
そんなことを学ぶ中で、
やはり大きかったことは家族や、
自分自身の本音とのコミュニケーションを取ることによる
自己受容だったように思います。
できない自分を自分で認めて、
そんな自分も、自分なんだと
理解すること・・・
まずは、誰よりも自分自身のことを
自分が認めることでした。
そして、今では100歳までサロンワークをするという
美容師としての目標に加え、、
自分と同じように
ひとりでサロンをしているサロンワーカーの
WEBのマーケティングのお手伝いをすることで、
ひとりサロンの可能性に挑戦したいと
思うようになりました。
WEBを通した活動に出会い、
人生はテストという考えの元、
ready fire aimの精神で試行錯誤する
そんな自分の好きに気づくことができました。
自分の声を自分が素直に聞くことで、
その先で得られる経験や発信を通して、
美容師として、また人として
自分を必要としてくれる人と出会い、
共に理想の未来を目指す。
これまでの経験に執着せず、
この先どうなるか考えてもわからない未来に
とらわれることなく、自分がしたいことに
情熱を持って取り組んでいこうと思います。
美容師として人として
ここまでは美容師としての部分を少し置かせていただき、
宇留間祐介として、自分のことだけを書かせていただきました。

こんな私がひとりでサロンワークを
美容師としてしているのは、
髪をシャンプーからカット、
そして乾かしてデザインすることが好きだからです。
本当は寝ないで済むのなら、
ずっとこの繰り返しでもいいくらいです。
しかしそうはいきません。
ですから、限られた時間の中で、
髪をデザインさせていただくことを
おまかせ頂けた方にだけは、、
これらの思いをハサミを使って元々の髪の素材と
“その人らしさ”を最大限、活かす“美的”と、
サロンという空間とそのサロンを出た後の
日常で過ごされる時間を通して、
“快適”をお届けしていきます。
宇留間が考えるデザイン
私が考えるヘアデザインには、
・お客さん自身の気持ち、
・その周りの方々の気持ち、
・それをデザインさせていただく宇留間の気持ち、
これら3つの気持ちの真ん中にあるデザインを
美的と快適のバランスを使い
デザインすることだと定義しています。

これからも、
100歳までヘアデザインさせて頂けることを目標に、
またひとりサロンワーカーのWEBマーケティングに
挑戦、貢献できるよう、感謝を忘れず
楽しんで精進し続けていきます。
これからもどうぞよろしくお願いします。
それでは、最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
明日も情熱をもって頑張ろう!

100歳まで趣味美容師
宇留間祐介
PS
美容師の仕事が趣味になる世界を目指しています。
1人サロン美容師の役割には多くの価値があると信じています。
私が趣味美容師を叶える手段は、
お客さんに喜んでもらえる1人サロンの特徴を活かした提案です。
趣味美容師zoomウェビナーでは、
1人サロンを出店する前に知っておきたい
マーケティング戦略からメニューの決め方や販売方法など
ウルマの実践結果を共有していますので、
興味がある方は覗いてみてください。
↓
趣味美容師zoomウェビナー
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