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西台・京徳観音堂の盛衰
~江戸時代、京徳観音堂の人気はすごかった~
京徳観音堂(板橋区西台3-53-2)の現況
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西台は、荒川低地に張り出した武蔵野台地北辺の高台の一つです。京徳観音堂は、この台地の縁を巻く古道「峡田道」(はけたみち)から、いきなり急な石段を登った丘陵の中腹にひっそりとたたずむ、正観音菩薩を祀る無住の仏堂です。
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手前が「峡田道」
境内からさらに奥へと登ると板橋区立志村第五小学校があるため、参道石段と並行して通学路用の階段が設けられ、地域住民にも利用されています。京徳観音堂の石段がかなり傷んでいるので、安全のために新たにつくられたのです。ここを通る何人かに、京徳観音堂について聞いてみたことがありますが、お堂の存在は認識していても名前までは知らない、という答えが帰ってきました。
現代でこそ京徳観音堂の知名度は低くなってしまいましたが、かつては数多くの信徒を抱えていた繁栄の時代があったようです。今回の記事では、こうした京徳観音堂の歴史に触れてみたいと思います。
「京徳」は、お堂のある場所から南側一帯の小名です。京徳観音堂は、かつては単に「観音堂」と呼ばれ、地図上でも「観音堂」、もしくは「観音寺」と表記されていました。
現在は圓福寺(西台3-32-26)の境外堂になっています。
教徳寺と京徳観音堂
江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』には、次のよう記されています。
京徳寺 新義真言宗、多摩郡中野村宝仙寺末、水想山ト号ス、本尊不動
(中略)
観音堂 京徳寺持
当時、西台に京徳寺(教徳寺)という真言宗の独立寺院があり、京徳観音堂はその境外堂で、真言宗だったことがわかります。現在、教徳寺は存在しないので、その具体的な場所は不明です。
※京徳と教徳が混用されていますが、地名は京徳、寺名は教徳が正しいとするのが、板橋区教育委員会の見解です。
京徳観音堂の創建と繁栄
観音堂の創建
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観音堂に架かる鰐口には「武州豊嶋郡西台村 教徳寺 延宝三年(1675)乙卯三月吉日」とあることから、古くはこれが観音堂の創建と考えられていました。
これが覆ったのは、昭和51年(1976)の観音堂改築時に新情報が得られたことによります。
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茅葺きだった旧堂の取り壊しに立ち会った板橋史談会員らは、須弥壇近くの欄間に「造立秀諭代内田福照延享元甲子年(1744)九月吉祥日」の墨書を発見しました。秀諭は僧、内田某は地域の有力檀那です。さらに後日、境内の墓地で秀諭の墓碑がみつかり、「法流開祖法印秀諭宝暦十三癸未年(1763)六月十有七日」の銘文が確認されました。これによって、観音堂は延享3年に秀諭が建立したことが判明しました。また、「法流開祖」とあることから、秀諭が新しい祈祷を始めたことも推定されたのです。
観音堂の繁栄
旧堂取り壊しの際に発見された一枚の木札に、「奉納正観世音菩薩御宝前(中略)武州西葛西領隅田川観音講中 せゐ、もと、ちよ、なを、くら、しな、さよ、きせ、およ、もん、きせ、いよ、願主卓音、天明八戌申年(1788)五月吉日」と書かれていたことから、女性中心の観音講中が葛西領まで広がっていた状況も明らかになりました。(中西真郎1976「京徳観音堂改築の記」『板橋史談54・55合併号』板橋史談会)
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昭和51年の修理で金と黒漆が塗られ、やや像容を損じた
また、当寺の観音は江戸時代の流行仏で、殺到する参詣者によって石段が絶えずこわされたので、業をにやした村民が混雑を阻止する呪い(まじない)に観音堂の向拝の柱を栗の逆さ柱に取り替えた、という古老の話も伝わります。(伊藤専成1971『いたばしの街道めぐり』板橋区教育委員会)
江戸時代における京徳観音堂の繁栄ぶりが想像できましょう。
なお、先に述べた鰐口は観音堂の創建以前につくられたもので、銘文に「教徳寺」とあることから、教徳寺は少なくとも江戸時代初期には存在していたことが確認できます。鰐口は(京徳)観音堂建立の際、教徳寺の別の堂にあったものが移設されたのでしょう。
旗本井上正昭・正員父子の墓がある理由
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境内の一画に無造作に集められた石塔群の中に、江戸時代初期に幕府の老中を務めた井上正就(まさなり)の次男井上正昭と、正昭の長男正員(まさかず)の墓石があります。
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老中だった正就は江戸城中で目付豊島刑部少輔に殺害されたため、正昭は父の遺領の一部(下野国西方の庄、のち常陸国筑波郡)を分け与えられ旗本になりました。正員は父に先立ち貞享元年(1684)10月22歳で死亡し、父の正昭によって教徳寺に葬られました。正昭も貞享3年(1686)に亡くなり、次男の織部正晴によって教徳寺に葬られました。
井上家歴代の菩提寺は別に存在しており、教徳寺に墓があるのはこの2人だけであることから、おそらく正昭は教徳寺の住職に帰依して信徒となったものと考えられています。(文化財を散歩する~いたばし文化財ふれあいウィーク~「井上正昭・正員父子の墓」板橋区教育委員会発行ポストカード)
このように、江戸時代の教徳寺あるいは京徳観音堂は、地域住民だけでなく、かなり広範な地域に信徒が存在し、帰依を受けていたという状況が窺えるのです。
延文6年の宝篋印塔の謎
しかし、教徳寺の創建は、さらにさかのぼる可能性があります。
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境内の石塔群中に、2基の立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。高さは146㎝と142㎝、一方には「延文6年(1361)七月十三日 逆修 性阿弥陀仏」と、もう一方には「延文6年(1361)七月十三日 逆修 道用」の銘文があります。「延文」は南北朝時代の北朝年号であることから、この地域は北朝の影響下にあったと推測されます。また、逆修とは生前に自分の死後の冥福のために行う仏事のことなので、生前に建てられた墓碑になります。
「性阿弥陀仏」と「道用」は、おそらく夫婦であったと考えられていますが、何者なのかは不明です。石塔の大きさから、相当な有力者だったことは間違いありません。この地域の豪族だろうとする見解もありますし、名前から宗教者(僧)とも考えられましょう。しかし、これほどの石塔を建立できる西台地域ゆかりの有力者は、文献史料からも確認できません。教徳寺との関係も不明です。ただ、当時ここに何らかの宗教施設が存在した可能性は高いでしょう。
明治以降の京徳観音堂
教徳寺の廃寺と圓福寺への移管
明治5年(1872)の「新義真言宗本末一派寺院明細帳」に教徳寺がみえないことから、教徳寺は明治初年頃には廃寺となって実態がなく、京徳観音堂のみが残されていたと推定されます。
さらに、明治18・19年(1885・86)の「郡部仏堂明細帳」には、「志村西台字東台千百三十二番地 曹洞宗 観音堂 本尊 正観世音」とみえるので、この時期には京徳観音堂が圓福寺(曹洞宗)の管理になっていたと推定できます。
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観音堂内に掲げられている扁額は、明治8年(1875)6月7日に、廃寺となっていた教徳寺所有の観音堂と敷石を、教徳寺の本寺だった中野の宝仙寺が東京府の命により拾円で買い取り、墓は持衆に付属する旨が書かれた西台村「元教徳寺世話人衆中」充ての証文と、それが間違いない旨を昭和5年(1930)に西台村副戸長や檀家へ伝えた2通の書状を扁額にして奉納されたものです。(板橋区教育委員会編刊2014『いたばしの文化財第7集』)
扁額は、観音堂が買い取られて半世紀以上も経ってから、宝仙寺から檀家に対し、改めてその内容が伝えられたことを示しています。
すなわち、昭和5年に証文が交付されたことを記念して、檀家たちがわざわざ扁額にしているのです。これは、観音堂等を買い取った宝仙寺と檀家との間に何らかの問題が生じ、権利関係の確認が行われ解決したことを物語っていると考えられます。
京徳観音堂の寺宝
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観音堂内には、安政4年(1857)に地域の伊勢講中が奉納した勧進帳の絵馬や、かつてここで行われていた百万遍念仏講の大念珠が架けられていますが、平時は扉が固く閉ざされており、拝観できる機会はめったにないのが残念です。
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境内にはこのほかに、「目の薬師」として信仰を集めた石造薬師如来坐像が小堂内に安置されています。
また、近世石仏としては板橋区内最古級の万治3年(1660)に造立された「峡(はけ)の地蔵」も秀作です。京徳観音堂の石段下の道が「峡田道」と呼ばれたことに因んで名付けられたといいます。
境内はいつでも拝観できますので、マナーを守ったうえで、ぜひ訪ねてみてください。
問い合わせ先
板橋史談会事務局 電話090-9326-4586 itashidan@gmail.com
板橋史談会ホームページ https://itashidan.hp.peraichi.com/1964