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板橋宿と本陣・脇本陣
板橋宿は江戸四宿のひとつ
今回は、板橋宿について、簡単にご紹介したいと思います。
板橋宿は江戸時代の中山道の第一宿で、日本橋から約10kmのところにありました。江戸を出立し上州(群馬県)方面に向かうにせよ、逆に江戸へ入るにせよ、江戸市中とは至近でしたので、休憩はしても、わざわざ宿泊する旅人は限られていたようです。板橋宿とともに江戸四宿を構成する東海道品川宿、日光道中千住宿、甲州道中内藤新宿も、規模や利用客数に違いはあっても、おおむね似たような状況でした。江戸四宿は、旅人にうどん・蕎麦や団子など現在で言うところのファスト・フード提供の場、旅人たちへの見送り・出迎え(宴会などの接待)の場、あるいは男性たちの遊興の場としての機能が中心だったのです。多くの旅籠には飯盛女(めしもりおんな=遊女)が置かれましたが、「板橋と聞いて迎えは二人減り」との川柳があるように、板橋宿は農村的な性格が強く、品川宿や千住宿、内藤新宿と比べると垢抜けしていない印象を持たれていたようです。
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乗蓮寺は赤塚に移転して現在はないが、板橋宿(中宿)のようすが描かれている
参勤交代で中山道を利用した大名は、加賀藩前田家を筆頭に約40家でした。東海道を利用する大名は146家もあったといいます。
板橋宿の規模は、江戸時代後期編纂の『宿村大概帳』によると、天保14年(1843)の時点で旅籠が54軒、家数は573戸、人口2,448人でした。当時の宿場の賑わいは、渓斎英泉の浮世絵「木曾街道 板橋之驛」や『江戸名所図会』などからうかがい知ることもできます。
上宿・中宿・平尾宿
板橋の宿場は3地域に分かれていて、江戸に近い方(南側)を「平尾宿」、中央を「中宿」、京都寄り(北側)を「上宿」と言いました。宿場機能の中心は中宿にありました。
京都寄りを上宿とした場合、江戸に近い方は下宿と呼ぶのが一般的でしたが、板橋ではなぜか平尾という地名が用いられました。
本陣と脇本陣
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この碑以外に本陣跡を偲べる痕跡はない
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現在は大きなマンションになっている
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ここも大きなマンションとなっている
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上宿脇本陣はこの橋の右の位置にあった
本陣は中宿〈飯田新左衛門家〉(仲宿47)に1軒、脇本陣は上宿〈名主・板橋家〉(本町41付近)・中宿〈名主・飯田宇兵衛家〉(仲宿54)・平尾宿〈名主・豊田家〉(板橋3-27)に1軒ずつありましたが、現在その姿を伝える建物などは残っていません。本陣跡、中宿脇本陣跡、平尾宿脇本陣跡にはそれを示す石碑がありますが、上宿脇本陣跡は昭和になって河川改修された石神井川の流れの中に取り込まれてしまいました。
明治以降の変化
宿場機能の喪失から行政の中心地へ
板橋宿は明治17年(1884)に上宿から発生した大火災で、上宿と中宿の大半が焼失してしまったことや、大火災発生の1年前の明治16年(1883)、上野~熊谷・前橋間に鉄道が開通したため、交通の要としての役目は衰えてしまいました。
しかし明治以降も旧板橋宿の地域には、明治11年(1878)に平尾に北豊島郡役所が、明治22年(1889)の「市制・町村制」で板橋町が成立すると仲宿に板橋町役場が設置されるなど行政の中心となりました。現在も旧宿場の近くに、板橋区役所や板橋警察署、板橋消防署などの行政機関が集中しています。
板橋遊郭街
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明治になって衰退した板橋宿では起死回生をはかるための手段として、昭和の戦前までの一時期、遊郭街として繁栄していた時代がありました。現在その名残はまったくありませんが、板橋区立郷土資料館(赤塚5-35-25)に、当時最大の遊郭であった「新藤楼」の玄関が移築展示されています。遊郭について触れることに不快な思いをされる方もいると思いますが、当時は現在とは異なった時代背景があり、こうした歴史があったことを認識したうえで、現代社会のあり方を考えていくことが大切だと考えています。
商店街として繁栄
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「板橋宿」や「仲宿」の大きなアーチが、宿場だったことを示している
旧板橋宿の範囲であるJR板橋駅前から都営三田線板橋本町駅付近までの間には、現在も板橋駅前本通り商店街、板橋宿不動通り商店街、仲宿商店街、板橋本町商店街と、4つの商店街が切れ目なく続きます。宿場時代の建物は残らず、商店もさま変わりしていますが、宿場の繁栄を受け継いだ板橋区内有数の庶民的な商業地域になっています。
問い合わせ先
板橋史談会事務局 電話090-9326-4586 itashidan@gmail.com
板橋史談会ホームページ https://itashidan.hp.peraichi.com/1964