板橋城は「幻の城」
今回は、一般にはあまり知られていない板橋城について触れてみたいと思います。noteの記事はできるだけ平易にと心がけていますが、この記事では少し難解な内容と作成者の主観が含まれています。
なお念のため申し添えますと、ここで紹介するのは、石垣や天守が登場する前の、土塁と空堀で構成されていた中世の時代のお城になります。
赤塚城と志村城
東京都板橋区内に存在した中世のお城では、赤塚城と志村城の2つが比較的よく知られています。どちらの城も、城名としては一次資料(城が存在していた時期と同時代の古文書など直接的な情報資料)に登場せず、二次資料(軍記物語や江戸時代編纂の地誌など後年に作成された資料など)で簡単に触れられている程度なのですが、わずかな遺構の存在と地域伝承によって、城跡はほぼ確定しています。この2城については、別の機会に触れることにします。
板橋城は幻の城
中世の板橋区内には、もうひとつの城として板橋城があったはずですが、その所在地については研究者の間で論争が繰り返されてきました。なぜなら、板橋城について直接的に書かれた一次資料はもちろん、城の遺構も発見されていないからです。
板橋城の旧跡に関しては、19世紀前半(江戸時代後期)に完成した『新編武蔵風土記稿』の記述では、当時すでに詳らかでない状態になっていました。
板橋城の比定地には約10の説
『新編武蔵風土記稿』には、「板橋将監親棟板橋の御東山と云所に在城して氏を板橋と改む」との一文があります。また、瑞光寺(栃木県鹿沼市)所蔵の「板橋家譜抜書」や「板橋氏系図」(板橋弘子家文書)に、「武州豊島郡板橋東山ノ城」という記載があることが知られています。(吉田政博2001「資料紹介 松本藩戸田家家臣板橋家所蔵文書の紹介と検討―系図・系譜を中心として―」『板橋区立郷土資料館紀要 第13号』板橋区教育委員会)
では、この「東山」はどこなのでしょうか。実は、これをヒガシヤマと読むのかトウヤマと読むのかということでも意見が分かれているのです。
板橋城(子城も含む)比定地は、次のとおり10程度の説が存在します。
⑴ 御東山伝承地〈長命寺・上板橋小学校周辺〉
⑵ 日暮里山〈加賀小学校・稲荷台公園周辺〉
⑶ 安養院周辺
⑷ 根ノ上〈整肢療護園周辺〉
⑸ 番城山〈茂呂山公園周辺〉
⑹ 茂呂松山〈茂呂遺跡・都立大山高校周辺〉
⑺ 苛根小〈都立城北中央公園東寄り〉
⑻ イナリ山周辺〈日本大学板橋病院周辺〉
⑼ 旧乗蓮寺跡〈専称院周辺〉
⑽ 中丸周辺
このうち、日暮里山と中丸周辺は板橋(下板橋)地域、それ以外は上板橋地域になります。また、谷端川沿岸である中丸周辺を除くと、いずれも石神井川の流域にあたります。
御東山伝承地(東山町48 長命寺・上板橋小学校周辺)
古くから定説とされてきたのが、長命寺・上板橋小学校の周辺です。住所はヒガシヤマチョウと読みます。
『新編武蔵風土記稿』は、所在地は不詳としつつも上板橋村の項において「板橋城蹟」を採り上げていますから、これを素直に受け入れれば、板橋城は上板橋地域にあったことになります。
長命寺・上板橋小学校は、①江戸―川越を結ぶ(旧)川越街道と石神井川の交差部とも近く、②南西方向に向かっていた(旧)川越街道が長命寺の高台に突き当たってから北西に大きく迂回していることから、交通の要衝だったと考えられること、③城の立地として不自然な地形ではないこと、④16世紀前半の情勢から、この地域が川越城を拠点とする扇ヶ谷上杉氏と江戸城から進出する小田原北条氏の抗争の前線であった可能性が高いとみられるなど、当地が板橋城の有力な候補地であるのは間違いありません。
こうしたことから、平成18年(2006)、上板橋小学校敷地内に「伝 御東山 板橋城跡」の碑が「上板橋小学校まてば椎会」によって建立されました。
ただし東山町の町名は、周辺が「御東山」だったという伝聞に基づき昭和35年(1960)に命名された現代地名です。17世紀中頃(江戸時代初期)創建の長命寺は「東光山」と号すものの、周辺の近世の小名は「山崎」であって、史料上「東山」の小名は確認されていないことが、この説の弱点と言えましょう。
日暮里山(稲荷台23-1 加賀小学校・同24-9 稲荷台公園周辺)
一方、板橋史談会の故・浅沼政直氏(元事務局長)は『板橋氏と板橋城』(1991)において、板橋城は稲荷台の日暮里山だと推定しています。
根拠とするところは、①板橋宿の上宿脇本陣をつとめた板橋家当主の、御東山は「オトウヤマ」と読み、子どものころから父や祖父と一緒に「オトウヤマ」(今の稲荷台)の稲荷神社にお参りに行ったという証言、②板橋の地理に精通している古老の、自分が子どものころは稲荷台を「城山」と呼び、空堀もある格好の遊び場であったという証言、③戦前にこの地を測量した技師の、空堀らしき痕跡があったという証言、④明治44年(1911)の古地図にみえる「東宿(とうじゅく)」「東原(とうばら)」「東前(とうまえ)」の地名、など具体的です。
現状ではこれらの証言を確認できる遺構はありませんが、日暮里山は南側に石神井川が流れる台地であり、板橋城の有力候補地と言ってよいでしょう。
当地にあった稲荷神社は新堀(日暮里)稲荷と呼ばれ、板橋城廃城後に太田道灌の家臣新堀氏が勧請したとの伝承もあり、明治40年(1907)に根村の氷川神社(双葉町43-1)に合祀されています。
安養院周辺(東新町2-30-23)
安養院は、鎌倉時代に執権北条時頼によって創建されたと伝わる寺院です。したがって、板橋氏が周辺地域に勢力を張っていた時期には、すでに存在していたことになります。
『板橋区史 通史編 上巻』(1998)では、この地域に残された板碑の数が長命寺周辺と比較して非常に多いことに注目し、有力な在地領主が存在した可能性に言及しています。ここも板橋城の有力な候補地のひとつと言ってもよいでしょう。地形的にも、伽藍北側の墓地のある高台は舌状台地の先端部であり、城跡としての雰囲気を感じることができる場所です。ただ、安養院には板橋氏・板橋城との関係を示す資料等の伝来がありません。
根ノ上(小茂根1-1 整肢療護園周辺)
今から約半世紀前のことになりますが、地元の有志や民間研究者らが板橋城址調査会を結成し、『板橋城跡の解明』(1972)や『改訂版板橋城址論考』(1978)を刊行しました。
同書では、現在の整肢療護園周辺の「根ノ上」に板橋城があったと断言しています。実際に地域を歩き、古老に聞き取り調査を行って、①標高的に周辺で最も高台である、②人工的な塁壁・空堀跡が残存する、③かつて小祠があって祠堂山と呼ばれ、これがすなわち「オトウヤマ(御東山)」と同義である、④堀ノ内・北ノ内等の地名があり城があったことを示しているなどと述べています。ただし、論旨展開には独特な面がみられ、再検討が必要でしょう。
番城山(小茂根5-2 茂呂山公園周辺)
現在茂呂山公園となっている丘陵は、かつては番城山(ばんじょうやま)あるいは番地山(ばんちやま)と呼ばれていたそうです。この名称から、板橋城の番所的な出城であったとする説があります。
これとは別に、永禄2年(1559)成立の『北条家所領役帳』にみえる「板橋ノ内 毛呂分 板橋又太郎」との関連性も推定されています。
茂呂松山(小茂根5-13~19 茂呂遺跡・都立大山高校周辺)
茂呂遺跡・大山高校一帯の独立丘は、地元の人からは「オセド山」あるいは「茂呂松山」と呼ばれていました。茂呂遺跡は、群馬県の岩宿遺跡に次ぎ日本で二例目となる旧石器が発見された著名な遺跡です。
板橋城址調査会では、オセドと言う名称に独自の解釈を加えて、古くからここに領主は存在したが、板橋城ではなく館に過ぎないと主張しています。規模の違いを強調したかったようです。確かに地形からみて、要害としての機能は脆弱に思われます。
苛根小(桜川1-4 都立城北中央公園)
御嶽神社(桜川1-4-6)社殿裏の丘上のあたりで、現在は野球場になっている場所です。
板橋城址調査会『改訂版板橋城址論考』(1978)では、古老の話などから城北中央公園の舌状に張出した丘陵地に苛根小(かねこ)砦があったが詳細は不明としつつ、板橋城の支城の可能性を示唆しています。
イナリ山周辺(大谷口上町30 日本大学板橋病院周辺)
日大板橋病院が建つ丘陵にはかつて稲荷神社があって、「イナリ山」と呼ばれていました。江戸時代には酒井日向守の抱屋敷がありました。板橋城址調査会は、かつては地元で「板橋加賀屋敷」と呼ばれていたとし、『北条家所領役帳』にみえる「拾弐貫文 板橋大炊助 屋敷分 板橋分」がここであるとしています。おそらく「屋敷分」という記述からの単純な連想だろうと考えられます。
また、「板橋加賀屋敷」については不明ですが、板橋氏系図の一本に、親棟の子として「加賀守」を名乗る者がみられます。
城の立地条件としては整っており、東京にふるさとをつくる会(代表西ヶ谷恭弘氏)が平成2年(1990)に発行した『東京の一万年(上)』では、小田原北条氏の狼煙(のろし)ネットワークのひとつとして、当地に大谷口城の存在を推定しています。
旧乗蓮寺跡 ー専称院周辺ー(仲町44-1)
ここには江戸時代の初期まで乗蓮寺がありました。乗蓮寺が仲宿へ移転したのち、その塔頭(たっちゅう)である香林庵が残っていましたが、昭和7年(1932)に北区豊島から移転して来た専称院に合併されました。
なお、乗蓮寺は昭和後期に仲宿から赤塚へと再移転し、現在に至ります。
小田原の北条氏に仕えた板橋信濃守忠康は、安土桃山時代の文禄2年(1593)11月21日に死去して乗蓮寺に葬られました。乗蓮寺が忠康の菩提寺であることから、その旧地である当所を板橋城跡とする説があります。
しかし地形的には平坦なため、平時の館だった可能性はあるかもしれませんが、城跡と捉えるには無理があります。むしろ、石神井川の対岸にある御東山伝承地(長命寺・上板橋小学校)との関連性を視野に入れて検討するべきでしょう。
中丸(中丸町一帯)
中丸地域には谷端川が流れていますが、地形的には比較的平坦で、「中丸」という地名に注目して提唱されたに過ぎないと思われます。
『新編武蔵風土記』でも、城跡の伝承等について何ら記載がありません。
中丸の範囲は広大ですが、説では具体的な城跡の言及もされていません。
分家が進んだ板橋氏
最後に、板橋城主とされる板橋氏について、少し整理しておきましょう。実は、板橋氏についても断片的な史料しか確認できていません。
まずは、下に3つの略系図を示します。
いずれも近世に成立した系図で、信頼度は決して高くはありませんが、情報が乏しい板橋氏の歴史を紐解くにためは、貴重な史料と言えましょう。
系図Ⅰ『泰盈(やすみつ)本豊島系図』によると、板橋氏は、武蔵国南部一帯に勢力を築いていた豊島氏から分派した一族ということになります。板橋二郎豊防の出現は、諸史料から14世紀後半(南北朝時代)頃と推定できます。系図Ⅱにみえる板橋氏は戦国時代から江戸時代初期、系図Ⅲは戦国時代末期から江戸時代初期の者になります。
系図Ⅰの板橋氏と、Ⅱ・Ⅲの板橋氏の関係については、不明です。
『新編武蔵風土記稿』は、Ⅱにみえる親恒と、Ⅲにみえる忠康を同一人物としています。一方で、ここには系図を示しませんでしたが『寛政重修諸家譜』では、親恒と忠康を親子としています。しかし、Ⅱで親恒の父とされる親棟とその孫の忠康、曽孫の忠政の没年が近接していることから、系図上の親子・孫の関係には疑問が呈されています。(吉田政博1997「戦国期以降の豊島氏とその庶流」『特別展 豊島氏とその時代―中世の板橋と豊島郡―』板橋区立郷土資料館)
Ⅱの親棟は『新編武蔵風土記稿』に氏を板橋に改めたとあり、忠康も系図Ⅲの傍註では初め豊島を名乗っていたとあるので、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの板橋氏は別の系統だとも考えられましょう。
さらに調べていくと、古文書や軍記物語には、これらの系図に現れない板橋氏が多数登場します。以下にいくつか例示します。
室町時代の文安5年(1448)の「熊野領豊島年貢目録」、15世紀後半に記されたとされる「としま名字之書立」(いずれも『米良(めら)文書』)に、「板橋近江」、「いたはし周防 同(いたはし)ひょうこ(兵庫)」の名があり、板橋地域に所領を有していたことがわかります。
寛正3年(1462)の「香蔵院珎祐記録」(鶴岡八幡宮『当社文書』)に現れる板橋某は太田道灌の配下にありましたが、『鎌倉大草紙』ではそれから15年後の文明9年(1477)、板橋氏は道灌と敵対する豊島氏に属し、江古田原沼袋合戦で道灌に敗死したと記します。
また『異本小田原記』によると大永4年(1524)、板橋某・市太夫兄弟が小田原の北条氏綱と敵対した上杉朝興に属していましたが、永禄2年(1559)『北条家所領役帳』には、北条家臣として「板橋大炊助」「板橋又太郎」の名がみられます。
さらに『異本小田原記』は、天正元年(1573)、北条氏一族から武蔵千葉氏へ養子に入って名跡を相続した千葉二郎(直胤)の与力衆として、板橋城主・板橋肥後守の名を記します。
これらのことから、板橋氏は一族内で分家が進み、それぞれ独自の政治的行動をとったと考えられると吉田政博氏が指摘しています。(吉田政博1997)
数家ある板橋氏は、当然のことながらそれぞれに屋敷地を構えていたはずですし、年代的な消長もあったでしょう。したがってその拠点とした城館の場所も移動したり、同時期に複数存在したこともあったとみて差し支えないと考えます。「板橋城はここだ」と、ピンポイントでの議論にこだわる必要はないのかもしれません。
以上、板橋城比定地の各説を写真付きで紹介しましたが、読者の皆さんは、写真では城の痕跡が明確でないと感じたかもしれません。現状では旧宅が密集し、撮影が難しい場所もあります。特に板橋城跡の有力な候補地では、考古学的調査が行われないまま開発が進んでしまい、遺構を把握するのがかなり厳しい状況になってしまいました。
問い合わせ先
板橋史談会事務局 電話090-9326-4586 itashidan@gmail.com