
板橋史談会の区内おすすめスポット 【板橋地域】
板橋史談会は 1964 年 12 月に発足したアマチュア中心の郷土史サークルです。毎月 1 回、板橋区内のほか、都内・近県の史跡めぐりなどを行なっています。
板橋区は東京 23 区の中では、埼玉県と接する外周部に位置します。地味な印象は自認していますが、それでも地域に根差した歴史があり、文化遺産も受け継がれています。
近年では、こうした地域の歴史的名所や文化財を紹介する Web サイトは多数存在しますが、本サイトでは、板橋史談会の Webサイト 管理者が何度も何度も地域を歩いて把握した特にお勧めしたいスポットを、板橋地域・上板橋地域・志村地域・赤塚地域の4ブロック別に、少しマニアックな視点も交えてご紹介します。
ここでは、板橋地域をご紹介します。
なお、ここに紹介する寺院や神社は信仰の場であって、観光施設ではありません。マナーを守り拝観されますようお願いします。
板橋地域

東光寺(板橋区板橋 4-13-8)
東光寺は室町時代創建と伝わる浄土宗寺院で、もとは船山(板橋区加賀)の地にありましたが、その地が加賀藩前田家下屋敷となったため、現在地へ移転したと言われています。

境内に入るとすぐ左側に、魅力的な石造物が並んでいます。
寛文 2 年(1662)造立の唐破風(からはふ)笠付庚申塔(こうしんとう)は、高さ 240 cmもある豪華な塔で、青面金剛(しょうめんこんごう)を主尊に、二童子、四夜叉、御幣(ごへい)を担ぐ一猿、雄鶏の一鶏と、青面金剛の眷属(けんぞく)がすべて描かれた庚申塔としては最古のものです。日本一の庚申塔と言っても過言ではないでしょう。

石造地蔵菩薩半跏(はんか)像は、像高285cmにもおよぶ区内最大の石造物です。享保4年(1719)徳川吉宗の時代に、東光寺の住職が導師となって建立されました。もとは現在のJR板橋駅の近く、中山道の平尾一里塚の上に安置されていました。
その隣には宇喜多秀家の供養塔があります。宇喜多秀家は豊臣秀吉の厚い信頼を得て、徳川家康らとともに豊臣家五大老の一人となり、前田利家の娘と結婚しました。関ケ原の合戦では西軍として戦い敗れ、八丈島へ配流となりました。明治になり、子孫は帰還を許されて加賀藩前田家下屋敷の一部を与えられましたが、多くは住み慣れた八丈島に戻っています。この不思議な形の供養塔は、子孫の手により明治時代に板橋一丁目に造立されたものです。以来、諸事情により場所を転々としましたが、現在は東光寺に安住の地を得ています。
観明寺(板橋区板橋 3-25-1)
観明寺は旧中山道沿いにある真言宗寺院で、室町時代の創建と伝わります。明治 6 年(1873)に成田山の不動を勧請し縁日が開かれたことから、門前周辺の旧中山道は不動通りと呼ばれるようになりました。


入口の小堂内にある寛文元年(1661)の庚申塔(こうしんとう)は、東光寺の庚申塔とともに日本屈指の名塔とされています。

山門は、加賀藩前田家下屋敷の門を移築したと伝わります。有名な東京大学の赤門は加賀藩前田家上屋敷の門で、それと比べると小さく簡素ですが、こちらの門も赤門と呼ばれています。
境内にある出世稲荷も、加賀藩前田家下屋敷内の稲荷社を移築したもので、社殿の彫刻がみごとです。
いたばし観光センター(板橋区板橋3-14-15板橋地域センター1階)

板橋区の魅力をPRする情報拠点で、歴史資料やパネル展示があります。区内の観光パンフレットの配布、区観光グッズの販売もしています。
開館時間 9時~17時
休館日 毎週火曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始
また、事前申し込みが必要(14日前まで)ですが、観光ボランティア「もてなしたい」による区内の観光ガイドを利用することができます(無料)。
くわしくは、いたばし観光センターホームページをご覧ください。
板五米店(板橋区仲宿 40-1)


板橋宿は明治 17 年(1884)の大火などの影響で、宿場当時の建物は残っていませんが、ここ板五米店は大正 3 年(1914)の建築ながら、宿場の雰囲気を今に伝えています。レンガの妻壁を 2 階の軒高まで立ち上げているのが特徴で、レンガの壁が外側に倒れないよう随所に金属のテンションバーが支えているのを見ることができます。なお、現在の業態は米店ではありません。
遍照寺(板橋区仲宿 40-7)

江戸時代は区内唯一の天台宗寺院で、宿場の馬つなぎ場がありました。そのため馬頭観音塔がいくつか建てられています。また、約50点の絵馬を所蔵していますが、なかでも板橋遊郭のひとつ千代本楼が奉納した「遍照寺参詣図」は褪色しているものの、たいへん優れた作品です。ただ、この絵馬は書院内に掲げられているため、拝観はお寺に声かけをする必要があります。本堂内にも古い絵馬が掲げられているので、外側からのガラス越しになりますが、いつでもご覧いただくことができます。
明治初年に神仏判然令の影響を受けて廃寺になりましたが、明治14年(1881)、旭不動堂と称して成田山新栄講の精神道場となり、昭和22年(1947)に真言宗寺院として復活、成田山新勝寺の末寺となっています。
文殊院(板橋区仲宿 28-5)

江戸時代初めの創建とされる真言宗寺院で、山門を入ってすぐ左には閻魔堂(えんまどう)があります。宿場の閻魔として知られていました。墓地内には遊郭のひとつ大盛川楼がたてた遊女の墓があります。亡くなった飯盛女(めしもりおんな=遊女)を大切に供養したことが偲ばれます。

板橋(板橋区本町 28)
旧中山道が石神井川を越える場所に架かる橋で、橋の南が板橋宿の中宿、北が上宿です。


江戸時代後期に刊行された『江戸名所図会』には、板橋の橋と宿場の賑わいが描かれています。当時の石神井川は板橋付近で南側に蛇行していました。現在は河道を北側にずらして直線化しているため、江戸時代の橋は現在の橋より南に位置していました。
一般には、この橋が板橋の地名の起こりとされていますが、諸説あるようです。

橋の周辺の石神井川は、桜の名所としてもよく知られています。
縁切榎(板橋区本町 18)

現在の縁切榎は小さなお社(やしろ)ですが、知名度はかなり高いようです。江戸時代には現在地からみて旧中山道の反対側のやや南、旗本近藤登之助の抱屋敷内(本町33)にありました。再開発のあおりを受け昭和44年(1969)に榎の移転が決まり、初代の木は伐採され、祠堂も取り壊されてしまいました。地方自治体の文化財保護制度が未整備だった時代のできごとでした。現在の榎は三代目とのことです。

一説に初代の木が榎と槻(つき=ケヤキの古名)と双生で、前の坂道が「岩の坂」だったので、「えんつきいやの坂」(縁尽き嫌な坂)と呼ばれ、のちに「縁切り」に結び付いたと言われます。男女の悪縁や断酒、借金など、さまざまな悪縁を断ち、良縁を結ぶという御利益を願い、現在もたくさんの人たちが参拝に訪れます。大正期に鼓山によって描かれた初代の榎の図を見ると、独特の奇怪な形状をしており、こうした縁切り信仰が生まれたのも納得できる気がします。
絵馬は自動販売機で売られ、願いごとを書いたら個人情報保護シールを貼って奉納するという、いかにも現代風な対応がみられます。
榎の幹は竹矢来で保護されていますが、榎の樹皮を煎じて縁切りしたい相手に飲ませると願いが叶うという言い伝えがあるので、樹皮をはがされないように保護しているのでしょう。
加賀藩下屋敷跡(板橋区加賀 1-8 区立加賀公園)
「加賀」という地名から想像できるように、周辺一帯(加賀一・二丁目、板橋四丁目の全域と板橋一・三丁目の一部)には、江戸時代最大の大名だった加賀藩前田家の江戸下屋敷がありました。金沢小学校や金沢橋の名前も下屋敷にちなむものです。その敷地面積も江戸の大名屋敷のなかで最大でした。総面積が21万8千坪と聞いても想像がつきにくいと思いますので、ぜひ地図で確認してみてください。

江戸時代の下屋敷内には大池(現・板橋五中周辺)があり、石神井川も流れていました。下屋敷跡は明治以降、国有地となった場所以外は民間に払い下げられました。国有地には陸軍板橋火薬製造所がつくられ、風光明媚だった下屋敷は大きく変貌していったのです。


現在、屋敷跡の面影を残すのは、池畔にあった築山(高山)くらいです。築山の周辺は加賀公園として整備されました。築山に登ると意外なほど周囲の眺望がひらけます。

平成20年(2008)、下屋敷が縁となり板橋区は石川県金沢市と友好交流都市協定を結びました。加賀公園には、金沢市から贈られた尾山神社楼門のステンドグラスを模したモニュメントが置かれています。
陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1-7・8)
明治9年(1876)、加賀藩下屋敷の跡地を利用して、陸軍省が国内初の官営火薬工場である板橋火薬製造所(のちに東京第二陸軍造兵廠(しょう)板橋属廠)が建設されました。東京近郊で広大な土地が確保できるうえ、石神井川の水力利用も可能という格好の場所だったのでしょう。昭和20年(1945)のアジア・太平洋戦争敗戦とともに火薬製造所が閉鎖されると、民間企業の工場、学校、研究所が入居し、建物群の一部はそのまま使用されてきました。軍事施設が学問や研究施設として転用されることになったのです。


平成29年(2017)、歴史的建造物や遺構が残っていた加賀公園、旧野口研究所、旧理化学研究所の敷地は国史跡に指定されました。現在板橋区が平和の大切さも学ぶことができる近代遺産の史跡公園として整備する計画を進めていますので、今後の環境も少しずつ変わっていくことでしょう。
史跡指定範囲外にも、火薬製造所と関連する遺構や記念碑が点在しています。

石神井川沿いの加賀一丁目みどりばし緑地(加賀1-14)には、当地にあったレンガ造りの火薬製造所建物の壁面がモニュメントとして地上に再現されています。

また、加賀西公園(加賀1-10)には、圧磨機圧輪記念碑と招魂の碑があります。圧磨機とは火薬を製造するための装置です。徳川幕府の命令によりオランダに留学していた澤太郎左衛門が、慶応元年(1865)にベルギーから持ちかえったものです。明治9年~39年(1876~1906)まで、近くの石神井川の水力を用いて黒色火薬を製造していましたが、役割を終えたあと、大正10年(1921)に記念碑に組み直して設置されました。
招魂之碑は、明治35年(1902)、この地で無煙火薬の爆発事故が起こり、消火活動中に命を落とした10名の慰霊碑です。
熊野神社(板橋区熊野町11-2)
ここに熊野神社があることから、熊野町という町名が生まれました。鎮守として信仰をあつめていたことがわかります。創建は室町時代応永(1394~1428)のころで、紀州熊野権現の分霊を祭祀したと伝わっています。


いろいろと新しい取り組みをしている神社で、境内にはかわいらしい熊のオブジェなどもあります。とくに、4月初旬から5月5日の端午の節句(こどもの日)が少し過ぎるころまでの期間には、500匹近いこいのぼりが飾られ、壮観です。
日曜寺(板橋区大和町42-1)

愛染明王を本尊とする真言宗寺院で、愛染が「藍染め」に通じることから、江戸近郊の染物業者の信仰を集めました。境内には愛染講などが奉納した石造物が点在しています。


日曜寺の宥慶上人が、徳川吉宗の子で徳川家御三卿の筆頭・田安宗武の帰依を受けたことで、田安家から仏像や仏画、経典などが寄進され什宝となったことが記録にありますが、一部の仏画などを除き、戦災により大半が失われてしまいました。被災を免れた山門には、田安宗武の子息で、幕府の老中を務めた松平定信の書になる扁額が掲げられています。

ここは隠れた梅の名所で、早春には境内が紅白の梅の花で彩られます。
以上、板橋地域から12か所を紹介しました。ほかに上板橋地域、志村地域、赤塚地域の情報も公開していますので、そちらもぜひご覧ください。
また、追加情報も順次掲載してまいります。
問い合わせ先
板橋史談会事務局 電話090-9326-4586 itashidan@gmail.com
板橋史談会ホームページ https://itashidan.hp.peraichi.com/1964