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板橋史談会の区内おすすめスポット     【上板橋地域】

板橋史談会は 1964 年 12 月に発足したアマチュア中心の郷土史サークルです。毎月 1 回、板橋区内のほか、都内・近県の史跡めぐりなどを行なっています。

板橋区は東京 23 区の中では、埼玉県と接する外周部に位置します。地味な印象は自認していますが、それでも地域に根差した歴史があり、文化遺産も受け継がれています。

近年では、こうした地域の歴史的名所や文化財を紹介する Web サイトは多数存在しますが、本サイトでは、板橋史談会の Webサイト 管理者が何度も何度も地域を歩いて把握した特にお勧めしたいスポットを、板橋地域・上板橋地域・志村地域赤塚地域の4ブロック別に、少しマニアックな視点も交えてご紹介します。

ここでは、上板橋地域をご紹介します。

なお、ここに紹介する寺院や神社は信仰の場であって、観光施設ではありません。マナーを守り拝観されますようお願いします。

上板橋地域

天祖神社(板橋区南常盤台2-4-3)

天祖神社の拝殿と、社号変更150年を記念して建てられた「神明宮」の石碑
南常盤台の天祖神社で6月30日に行われる「夏越の大祓い」

天祖神社は東武東上線ときわ台駅南口駅前にありますが、ときわ台駅の旧駅名は「武蔵常盤駅」でした。当神社が常磐木(ときわぎ)繁る杜(もり)であったことから名づけられた駅名だといいます。

天祖神社という名称の神社は、東京にしか存在しないそうです。天照大神を主祭神とする神社で、江戸時代には「神明宮」、明治時代に入ると「神明社」と称していましたが、明治6年(1873)の東京府の近代宗教政策により、東京の神明社はすべてが「天祖神社」に改められたのです。

南常盤台天祖神社境内の狛犬にある空襲による被弾の痕跡

境内にある弘化3年(1846)の狛犬(阿形)台座には、円形の傷があります。これは昭和20年(1945)6月10日の空襲による爆弾の破片の痕でです。

平安地蔵(板橋区南常盤台2-11)

平安地蔵とその由来歌碑
おとなとこどもを表す2体の地蔵が並んで祀られる

昭和20年(1945)6月10日の南常盤台周辺地域の空襲は、翌日の警察発表によると、死亡者269人、重軽傷者155人という甚大な被害をもたらしました。

終戦3年後の昭和23年(1948)6月10日、遺族や地元の関係者は、この空襲で最も多くの人が亡くなった工場の跡地に、供養と恒久平和を祈って「平安地蔵」と名付けた2体の地蔵を建立しました。さらに十三回忌にあたる昭和32年(1957)6月10日には、その脇に歌碑が建立されました。歌碑の表面には地蔵建立の由来と歌が、また裏面には空襲が原因で亡くなった282人の名が刻まれています。

板橋区平和公園(板橋区常盤台4-3)

平和公園の「平和の灯(ひ)」

平安地蔵からほど近い常盤台四丁目の「板橋区平和公園」の地は、アジア太平洋戦争中は陸軍高射砲陣地がありました。昭和61年(1986)12月、板橋区平和都市宣言に因んでできた公園で、広島市平和記念公園の「平和の灯(ともしび)」と長崎市平和公園の「誓いの火」とを合わせた「平和の灯(ひ)」が、平成4年(1992)にたてられました。平和の灯の脇の池は、横からだと分かりにくいのですが、「へ」「い」「わ」の文字をかたどっています。 

板橋区立中央図書館

また、平和公園内には令和3年(2021)に板橋区立中央図書館が移転してきました。翌年に「2022年度グッドデザイン賞」を受賞した美しい建物です。板橋区の歴史や文化に関する書籍も多数所蔵されています。

安養院(板橋区東新町2-30-23)

安養院は、武王山最明寺と号す真言宗の寺院です。鎌倉幕府執権北条時頼の開山と伝わります。時頼が諸国行脚の途次に持仏をこの地に安置し一宇を建立したのに始まるといいます。北条時頼は出家後に「最明寺殿」と呼ばれていました。

安養院境内 右の高木がカヤ(区指定天然記念物)
安養院庫裡の車寄せ

広い境内には本堂のほか、大師堂、多宝塔、庫裡などの堂宇が建ち並びます。なかでも庫裡は、明治34年(1910)にたてられた旧前橋藩松平家13代当主・伯爵松平基則の本邸を、昭和4年(1929)に安養院が買い取って移築したもので、向唐破風(むこうからはふ)付きの車寄せや2階建ての書院棟などからなる荘厳な造りです。

国重要美術品の安養院銅鐘

鐘楼には、元禄2年(1689)に鋳造、享和2年(1802)再鋳の銅鐘(国の重要美術品)が架かっています。鐘面を五区に画し、乳の間(ちのま)に乳〈いぼ状の突起〉を置かず、百字真言が刻まれた珍しい形態です。また、区登録天然記念物のカヤの大木もあります。

安養院の前立本尊 紅頗梨色阿弥陀如来坐像

前立本尊の紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀如来像も個性的で美しい仏像です。板橋区の文化財公開事業などの機会をとらえて、ぜひ拝観していただきたいと思います。

御嶽神社(板橋区桜川1-4-6)

御嶽神社の社殿は令和7年(2025)の初めに改修された

上板橋村の七軒家や栗原の人びとが、地区に神社がなかったことから、武州御嶽山から勧請したと伝わります。おそらく、江戸時代の終わりころだと思われます。

御嶽神社の狼型の狛犬

御嶽山の御師(おし)が配った「大口真神」(おおくちまがみ)の神札には、狼(山犬)が描かれていることからも分かるように、御嶽神社の狛犬は狼の姿をしています。当神社の社殿の右隣の覆堂には、嘉永7年(1854)造立の狼型の狛犬が安置されています。砂岩のため崩壊が進んでおり、何らかの対策が望まれます。

御嶽神社のオビシャで奉納される鶴亀の盆景と高飯盛りの膳

また、当神社では3月8日に、区内では珍しいオビシャ(御備射、御歩射)の神事が行われます。本来は矢を的に射てその年の豊作を占うものですが、ここでは簡素化されており、大根、ごぼう、笹を用いて鶴亀の盆景をつくり、強飯式(ごうはんしき)を思わせる高飯盛りの膳とともに神前に供えます。

茂呂遺跡(板橋区小茂根5-17)

昭和26年(1951)3月、当時中学生だった滝沢浩氏が、石神井川に臨む独立丘陵オセド山の切通しの関東ローム層の断面で黒曜石製の旧石器などを発見しました。7月に明治大学と武蔵野郷土館による共同発掘調査が行われ、旧石器時代の遺跡であることが判明しました。その2年前に群馬県の岩宿遺跡で行われた発掘調査で、日本で初めて縄文時代より古い時代の文化の存在が明らかになりましたが、茂呂遺跡はこれに次ぎ日本で2例目となる旧石器遺跡の発見となりました。

茂呂遺跡石碑

最初に出土した茂呂型ナイフ形石器は、明治大学博物館(千代田区神田駿河台1-1)に展示されています。茂呂遺跡ではその後、昭和34年(1959)と昭和55年(1980)の調査を経て、昭和57年(1982)に学術調査されたC地点では発掘後ていねいに埋め戻され、遺跡一帯をフェンスで囲んで人の立ち入りを制限しています。遺跡保全のひとつの方法と言えます。近年では、毎年11月3日に現地説明会が開催されていますので、こうした機会に訪れてみるのもよいでしょう。

根ノ上遺跡(板橋区小茂根1-5・6区立根ノ上遺跡緑地)

根ノ上遺跡は古くから存在が知られていましたが、昭和59~61年(1984~66)の都営住宅建て替えに伴う発掘調査で、旧石器時代から縄文、弥生、平安、アジア・太平洋戦争時などの遺構や遺物が発見されました。とくに、弥生時代後期の環濠跡がみつかったことで、一時期に「むら」(環濠集落)が形成されていたことが明らかになりました。

根ノ上遺跡を俯瞰
根ノ上遺跡緑地の復元住居跡

これを踏まえ、東京都住宅局では、新しく建てる都営住宅の位置を遺構に影響のない場所に変更し、緑地を設け、遺構を埋め戻して保存を図ったのです。さらに、モニュメントや砂場、花壇等によって住居跡の復元を行い、環濠の跡は都営住宅内にある小茂根図書館の絨毯(じゅうたん)の色を変えて表示しました。これにより、誰でも容易に遺跡の様子を知ることが可能となったのです。茂呂遺跡とは対照的な、公開を前面に押し出した遺跡保存のあり方を学ぶことができます。

下頭橋と六蔵祠(板橋区弥生町52-1)

旧川越街道が石神井川を越える場所に架かります。「げとうばし」と読むこの橋には、その名の由来について、いくつかの伝承があります。

下頭橋と六蔵祠

一つ目は、参勤交代で川越街道を往復した川越藩主を、江戸在番の家臣がここまで送迎し頭を下げたというもの。

二つ目は、橋畔にあった「逆さ榎」に因むもの。この地を訪れた弘法大師が愛用の杖を突き刺したところ、やがて大木になったという伝説です。杖は木の根の方を握りにし、先の方を下にして作るので、榎は逆に生えたことになるというわけです。「逆さ榎」は昭和2年(1927)に切り倒されたそうです。(畠山聡1994「六蔵様、伝説の榎」『写真は語る(総集編)』板橋区教育委員会)

三つ目は六蔵伝説です。この橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の死後、その懐中から出てきた銭をもとに石橋に架け替えられたというものです。真偽は別としても、地元では下頭橋のたもとに六蔵の遺徳を讃えて六蔵祠を建立し、毎年8月4日に供養祭が行われています。この伝承をモチーフに吉川英治が「下頭橋異聞」という短編小説を執筆しています。

六蔵祠の下頭六蔵菩薩

境内にある寛政10年(1798)の「他力善根供養塔」の銘文などに基づくと、実際のところは上板橋村の有力者が中心となり、近隣の村々の協力を得て石橋に架け替えられたようです。

西光寺(板橋区大谷口2-8-7)

江戸時代、17世紀半ばの創建と推定される真言宗の寺院です。当初は現在の門前から50メートル南に山門があったといわれ、その位置には丸彫り地蔵や庚申塔がたっています。

西光寺のしろかき地蔵

西光寺境内の地蔵堂には、「しろかき地蔵」という小さな石地蔵がいらっしゃいます。もともとは、西光寺の北を通る大谷道の坂(地蔵坂)の途中の斜面に安置されていたそうです。

むかし、信心深い大谷口の百姓が翌日の田植えのための苗代かきが終わる前に日が暮れて途方に暮れていたところ、代わりにこの地蔵が代かきをしてくれたというのです。田んぼから地蔵堂まで点々と泥の跡がつき、お地蔵さんは泥だらけだったと…。

この「しろかき地蔵」には銘文がありませんが、その特徴から中世につくられた石仏だと考えられています。それが正しければ、現存する板橋区内最古の石仏ということになります。

以上、上板橋地域から9か所を紹介しました。ほかに板橋地域志村地域赤塚地域の情報も公開していますので、そちらもぜひご覧ください。
また、追加情報も順次掲載してまいります。

問い合わせ先
板橋史談会事務局 
電話090-9326-4586  itashidan@gmail.com

板橋史談会ホームページ https://itashidan.hp.peraichi.com/1964


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