
源義経・徳川家康ゆかりの轡神社
小さいけれど気になる神社

轡(くつわ)神社(板橋区仲町46-3)は、倭建命(ヤマトタケルノミコト)を御祭神とする境内70坪ほどの、こぢんまりとした神社です。社名の珍しさとともに、社殿前に奉納された小さな草鞋(わらじ)が目に留まり、ちょっと気になる神社です。
轡神社の由緒
轡神社の由緒については、19世紀前半(江戸時代後期)に編纂された『新編武蔵風土記稿』に書かれています。文体が少し難しいかも知れませんが、以下に転載してみます。
「轡権現社 是モ東照宮御乗馬ノ轡ヲ祭リシトモ、又、御履ヲ祭ルトモ云ヘド慥ナラズ、社ニ丸ノ内十文字ノ紋ヲ彫レリ、人祈レバ必験アリト云、祈ル者ハ社内ニ納ル所ノ履ノ半片ヲ借テ、己ガ家ニ祠リ、報賽ノ時一双ノ履ヲ納ムトナリ、村民持。」
また、大正7年(1918)刊行の『北豊島郡誌』では、次のように書かれています。
「大字下板橋字山中に在り里老言ひ伝ふ昔東照宮馬を此処に止めて憩ふ、其跡に轡の在りたるを祭ると、又鏤なりとも云へど慥かならず。現に神体として崇めあるは馬蹄石と称する直径三寸周囲一尺二寸の化石にて、其の傍に長け一尺余幅五六寸の位碑型の石あり、表面に両社権現御本地阿弥陀如来、脇に宝永庚寅年六月、下に下板橋本屋喜右衛門と刻しあり。近年社の裏山より五個の古碑を発掘す。其の一基に文明五年道修禅門とあり、全部光林庵(註:香林庵の誤記。轡神社と至近にあった寺院。)墓地に存す。」
ふだん、こうした資料になじみがない方にとっては、読むだけでも億劫(おっくう)でしょう。そこで、板橋区教育委員会が発行した『いたばしの昔ばなし』(1978)に描かれた「くつわ神社の馬わらじ」を引用してみましょう。
「今から三百七十年も前のお話です。徳川家康は、江戸城を出ては方々の村々のようすを見てまわりました。
ある日のことです。馬に乗った家康は、鎌倉街道を石神井川を渡り山中村の香林庵の森までやってまいりました。お供の者たちも疲れていましたので、森かげにしばらく休みました。それからまた、お供をととのえて次の長崎村へ出立しましたが、出かけた後に馬の轡が残っていました。轡は馬の銜(くつわ)に取りつける麻の縄です。
村人たちは、それを大切に保存することにしました。これが轡神社の始まりと伝えられています。この神社の社殿の奥にしまわれていたものに、珍しい化石があります。その形は馬蹄に似ていて、およそ直径十センチほどのものです。それで、轡ではなく家康の馬の蹄鉄だとも言われています。
轡神社は、子どものお守り神で、特に百日咳(ひゃくにちせき)の神様として有名です。神社から馬のわらじ一つと、麻を戴いて参ります。わらじは神棚に供え、麻は子どもの首に掛けます。お礼詣りには新しい馬わらじと新しい麻をお借りして来たわらじに添えて、お供えすることになっています。
轡神社には、また別な言い伝えもあります。それは今から八百年も前のこと
治承の昔、源義経が奥州平泉から鎌倉へ馳せ参ずる時、ここを馬で通りました。義経の乗馬は疲れて、ゴホン・ゴホンと咳をしていました。義経は新しい馬に乗りかえて道を急ぎましたが、残された馬は咳に苦しみながら死にました。村人たちは大そうあわれんで、ていねいに葬り、そのとき馬の口からはずした轡をまつったことから、くつわ神社が始まったとも言われています。」
以上を読んでいただければ、改めての説明は不要でしょう。
ただし、轡神社は、轡あるいは馬蹄を祭祀したことによる創建とありますが、それが御祭神のヤマトタケルノミコトとどのようにかかわっているのか、理由は判然としません。
義経伝承の真偽
源義経の伝承など荒唐無稽(こうとうむけい)だと思う方もいらっしゃるでしょうが、平氏追討のため挙兵した源頼朝が板橋に陣を取り、それと合流すべく奥州から源義経が板橋に馳せ参じたものの、すでに頼朝は出立したあとだったという話が、『延慶本平家物語』や『義経記』に記されています。馬の轡が云々の件はともかくとしても、義経と板橋はゆかりがあった可能性があるのです。板橋区教育委員会が平成9年(1997)3月に設置した轡神社の案内板には、「轡神社の社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の『板橋』という説もあります。」と書かれています。
竹根権現の家康伝承から考える
では、徳川家康伝承の方はどうでしょうか。
実は、板橋区仲宿にある竹根権現社(仲宿46-1)にも、徳川家康に因んだ伝承があります。

板橋区教育委員会が令和6年(2024)12月に設置した現地案内板では、次のように説明しています。
「竹根権現社については、『新編武蔵風土記』の下板橋宿の竹根権現社(たけねごんげんしゃ)の項に、「東照宮此辺 御経歴ノ時、用イサセ給ヒシ御竹枝ヲ祭レリト云、香林庵持」とあり、東照宮(徳川家康)が下板橋宿に訪問した際に、家康が使用していた竹杖を当地に奉納したという記述が見られます。その後、当地には「権現社」が祀られ、信仰の対象となりました。なお、当社を江戸期に管理していた香林庵は、浄土宗乗蓮寺(現在は赤塚に移転)の持庵でした。
天正十八年(一五九〇)、家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国の領国から、同年に滅亡した小田原北条氏が支配していた伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の旧分国六ヶ国へと転封し、江戸城に入り、本拠としました。
関東に入部した家康は、各地を訪れて、盛んに鷹狩を実施しています。その目的は戦闘行為 の鍛錬の場としての意味合いに加え、新たに領地となった各地の民情視察を兼ねていたとされています。
この竹根権現社の由来は、徳川家康が鷹狩などで下板橋へと訪れたことが、故地として認知され、伝承化したものと考えられます。」
轡神社も、竹根権現と同様の背景に基づく伝承だと考えられます。寺社の創建にまつわる偉人伝承は全国各地で見られますが、伝承が生まれた社会的背景や環境から理解していくことが重要で、家康伝承にせよ義経伝承にせよ、その真偽を追究するのはナンセンスのようにも思います。
百日堰祈願と馬わらじ奉納
信仰が生まれたわけ
こうした創建伝承と百日咳や馬わらじ奉納の信仰との関係は定かではありませんが、義経伝承のなかで、馬が咳をして斃れてしまい当地で葬られたことや、馬の脚を保護するための馬わらじは大切なものであり、かつ消耗品であるため数多く必要であったことなどから生まれた習俗なのかもしれません。
馬わらじ奉納の実情
近年では、馬わらじが新規に奉納されることも稀になったようで、社殿前に掛けられた馬わらじの数もしだいに少なくなりました。しかし令和7年(2025)1月に訪問した際には、比較的新しいわらじが2足ほど掛けられているのを発見しました。ただそれは、馬用の正円形に近い小さなわらじではなく、人間用とみられる長円状の大きめのものでした。以前は轡神社隣接のタバコ店で奉納用の馬わらじを販売していたと聞きますが、この店は相当前に閉店してしまいました。現在では馬には蹄鉄が使用されるので、実用性のない馬わらじを入手することが難しくなっていると考えられます。


百日咳はこわい病気
百日堰は、現在でも特に乳幼児にとっては楽観できない恐ろしい病気です。厚生労働省のホームページ(2025年1月14日閲覧)によると、百日咳菌によって発生し、名前のとおり激しい咳をともないます。百日咳にかかった場合、一般に0.2%(月齢6ヵ月以内の場合は0.6%)のお子さんが亡くなってしまうといわれています。また、肺炎になってしまうお子さんが5%程度(月齢6ヵ月以内の場合は約12%)いるとされており、その他けいれんや脳炎を引き起こしてしまう場合もあるそうです。
現在の日本では予防ワクチンの接種が普及しているので、流行は抑制されていますが、衛生環境が整っていなかった時代には、親御さんたちが藁にもすがる思いで轡神社に祈願に訪れていたのでしょう。
参考:吉田政博2003「板橋温故知新 家康と板橋」(「いたばしの文化」57 板橋区文化団体連合会)
問い合わせ先
板橋史談会事務局 電話090-9326-4586 itashidan@gmail.com
板橋史談会ホームページ https://itashidan.hp.peraichi.com/1964