人と会わない嬉しさというもの
先日とあるインタビューで「コロナ禍になって、人に会わなくなって本当に楽になった」ということを仰る方がおられて、本当にこれまでずっと大変な気持ちで人と接してこられたんだなあとしみじみ痛み入りました。
しかも。
「コロナ禍なら、会わない、出歩かない理由を説明する必要がなくて、堂々と家にいられます。こんなに穏やかな気持ちになれたのははじめてかも。」とまで。繊細な人が誰かと関わることというのは、本当に苦しみを生じさせる可能性があるものだなと思いました。
根本的にいえば、自意識とは錯覚であって、現象でしかない物質の結びつきがたまたまストーリー展開しているかのように見えている。
しかもそれを、あたかも壮大なストーリーかのように誤解させるように脳が機能することによって、僕らは個の存在を重視する思考が生まれ、そこから生存することは尊いことであり、死は恐ろしいことであり、なるべく長生きをしているべきだと思ったりするような思考は生まれていく。
なぜか。
そんな風に思考した人たちの方が生き残る確率が高く、そういう思考をする人の遺伝子が色濃く残り、強化され、現在に至るからであると推察する。生存本能は、身体を生存を優先させるように、思考を発達させてきたのだと。
自意識があることによって、自分以外の認識を現実のものと錯覚させ、さらにその中で、あたかも自分にとって愛着が湧くものとそうでないものを分別させることになる。愛着を持ったものとは近くにいたいけど、愛着のないものや嫌悪すら感じるものとは距離を置きたいというものすらが妄想。
ただそうして、分別することによって多様な種の交配を可能にすることができて、だからこそこれほど生態系の中で、捕食者としてのピラミッドで頂点に君臨してきている。道具の利用によってそれが実現したから。
ああ、ぜんぜん関係ない話になった。
人は不安の中に生きる。けどそれは、生存本能によるものだと思うが、いまコロナ禍が不安をたくさん生み出している一方で、どこかで「ほっ」として生きている人もいるというのも事実。
人の価値観は多様で、みんなが苦しい・悩ましいと思える状況においても、だからこそ生き心地が良いと思う人だっているけど、ひっそり黙っている。