めざすものはなにか

ときどき聞かれる質問。

「なにを目指していますか?」


なにかを目指していないといけないかのように思って生きている人が多いし、僕も実際に随分といろんなことを目指していたなあと思います。が。

いまは「目指したものに到着しているのだから目指すものはない」ということしか正しい答えにはならないわけです。ただ、こうしていたいわけです。


決してイヤなことはしておらず、足りないものはなく、適度に刺激があって、適度に退屈があって、適度にストレスがあって、日々を過ごしている。

「じゃあ、いまが満たされているとして、その先になにを目指しますか?」

そう聞かれたとしても、「目指すものがない」としか言いようがない。このままこうしている。ただ、地球が回るし、景色も変わる。自分がここにいるだけで景色はずっと変わらないのかといえば、季節も変われば、年代も変わるし、情勢も変わるし、みんなの気持ちもどんどん変わっていく。


目指さなくても、変わらなくても、常になにかとの関係性は変わる。ずっと変わらない関係性に十分な確信はあったとしても、お互いに時間が過ぎていって、ちょっとした変化は必ずある。それを眺めている。エポケーだ。

結論は急がなくてもいい。なぜかって、そんなすぐ結論を出したからと言って、それは情勢によっていかようにも変化していく。人が余裕を持っているときの判断が、その全ての表しているというわけにはいかない。土壇場では誰も冷静な判断は出来はしないから、その時にも新たな局面は生まれる。

悲しい事態や、哀れむべき事態、憤慨すべき事態においても、判断を即座に下すよりは、観察して眺めておきたいものだと思う。さて、なぜ今それが?


それだけで日々は十分に味わえる。目指さなくてもそこには遊びがある。
きっと観察の仕方がわかれば、世の中はもっと楽しくなる。

そんなわけで、ここにいるのはいいのだ、と思っている。

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よこたいたる(お葬式研究家/呼吸の習いごと主宰)
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。