エア寺のイベント「生死の会」で今月とりあげるテーマは「地獄」です。
そこで地獄には働き者の獄卒がおります。罪人を徹底的にいたぶる仕事を一生懸命、毎日毎日、来る日も来る日も、何年も、何百年も、何万年も、何億年も、何万億年以上も、おなじことをやり続けるのです。
おなじことをするんです。ひたすら「いたぶる」です。
それってなんだろうなと思うわけです。何億年も存在をいたぶることができるとしたら、「怒り」や「復讐」の気持ちではやりきれなさそうです。
だって、スッキリしたら終わってしまいます。直接関係のある人を100年もいたぶり、悲しみに嘆き、許しを乞い、死に絶え、生き返り、また死ぬのを見ていると、さすがに憐れな気持ちになるのではないかと思うのです。
ですが、獄卒も閻魔大王も手をゆるめません。容赦をしません。
大焦熱地獄の獄卒は言います。
「消えない貴様の悪業の火が貴様自身を焼いているのだ」と
「汝は地獄の声を聞き
すでにかくのごとくに畏怖す
なんぞいわんや地獄に焼かるることと
乾ける薪草を焼くがごとくなることを
火の焼くはこれ焼くにあらず
悪業すなわちこれ焼くなり
火の焼くはすなわち消ゆべし
悪業の火は消すことあたわず」
閻魔大王はまったくの正論です。こう言います。
「私はすこしも罪を付け加えてはおらん。貴様自身の罪だ。」と。
「閻魔王常にかの罪人に告ぐ
わずかなる罪も我よく加うることなし
汝自ら罪を作りて今自ら来たる
業報自ら招いて代わる者なし
父母・妻子もよく救うことなし
ただまさに出離の因を勤修すべしと」
本当に厳しく、そして酷な責め苦。
なぜならあまりにもモノ分かりが悪いからだと思います。
そこまでしないと、また何度も何度も輪廻を繰り返し、地獄に還ってくるための悪業を重ねることが分かっているからボコボコのギッタンギッタンにして、罪の重さを学ばせ、そして何億年後かの後にチャンスを与えます。
そのとき、たまたま虫になっちゃうかもしれないし、そのときは鹿に生まれていくのかもしれない。それでも何度も失敗を繰り返したり、悪業を重ねて地獄で責め苦を受けてのち、超幸運なとき「仏教に出遇える」ときもある。
そんなふうに往生要集には書いてあります。
ほんとうにありがたいことをありがたいと思うためには、恵まれすぎていてはそれに気づかないということがあります。
知恵の足りなさをよくわかっている人は幸いです。
力を得ることの難しさを知っている人は幸いです。
与えられることの嬉しさを、素直に、心いっぱいに味わえるからです。
そういう意味で、絶望を与えるという仕事は大変な仕事です。
それを何万億年もものすごい数の罪人をしばきあげ続けるなんてのは、責め苦をする側も苦労しっぱなしだなと思います。
獄卒にあまり手間をとらせぬよう、なるべく多くの人が地獄よりも極楽に行くような関わりができたら、本当に嬉しいことだなあと思います。
お坊さんみたいなことを言っております。チーン。