はじめての沈黙の実践
インドの旅を経て、ひとつ非常に大きな気づきの機会となったことは、沈黙の力を信じるということだ。これはラマナマハリシという、今はもう亡くなったインドの聖者が実践していた、悟りへの導きの一手段である。
ラマナマハリシに対して教えを請いたいと集まった、敬虔な信者の人たちに対して、彼はただ沈黙するということを通じて、多大な気づきを提供するという実践をしばしば行ったと言われている。
これをまだうまく咀嚼しきれたと思えていないが、それでも沈黙することを実践することで得られることの効果がいかに大きいかを確かめることには、やはり大きな意義があると思った。
さて今日は、横浜で友人が開催した未来フェスならぬ「みないフェス」でのプレゼンテーション10分の時間を12名が与えられ、それぞれ個性的な活動や思想に関する発信を行っていった。
みないフェスとは、見ないフェスということである。見ないというのは、世間からの当たり前や常識というフィルターをちょっと見ないようにする、という意味での「みないフェス」なのだということだから、ここに集まって、ここでなにかを語る人たちはすべてそれを無視する強さのある人たちだ。
個々の発表がはじまり、お一人目の方が10分話されていたのだが、つかみのトークがとても上手で面白いのにもかかわらず、彼がここ数年ずっと考えることについて実践し続けてきた、本当に真面目な部分を披露してくださり、さらに彼の考えを強く支える「散逸構造理論」というものを紹介され、その簡単な内容を紹介してくれた。
曰く、エネルギーが放出され続ける限りにおいて、そこに事象は発生して具現化していき、構造が生まれていくのだということ。そして一定の構造は、最初のタイミングですでにそのエネルギーのキャパシティが確定しており、さらにそのキャパシティに達すると構造は自ずから瓦解し、つぎの構造を生み出すエネルギーを放出し始める、ということが繰り返されるというもの。
これをきいて、「それだよね」と思った。
わからないかもしれないが、これなのだ。
思いは形になるというのは、気持ちがどうこうということではなく、そこに思いが集結することによって存在が確定し、そのことによって具現化が開始されていくことで構造も質量も伴って、結果的にそこには「存在する」ということが実現される。そういうものなのだと思っているし、それは本当に、ただそういうことなのだということを分かるか、分からないかは、それまでその人がなにを見て、信じて、生きるようになったかに依ると思う。
僕にとっては、とても「それだよね」なのである。
そのため「沈黙のプレゼン」を実践しようとしたわけである。沈黙のプレゼンには、沈黙そのものが流れるが、余白が生まれ、さらに僕は想いを強く持ってエネルギーが強く発生させられると信じて時間を使ったし、その想いを組んでくれた参加者の方からの信じる気持ちによって、それが結びついて、そのとき必ず具現化された思いというものがあったことを確信している。
いまその瞬間に物質的には生まれなかったとしても、すこし時間をおいて、かならずそれは具体化していくのだと確信をしている。
言葉にはしなかったことにより、多くの無限の想いが具現化する機会へとつながると信じたし、またその信じる力が強い人との結びつきはさらに強くなり、結局のところは本当に具現化すべきものが具現化するために必要な前進があったと確信をしている。
そうした信じる力が具現化を支えるということを信じてはいるが、きっかけがなかった中で、初めての沈黙のプレゼン10分を実現することができたことが本当に大きな機会だったと思う。正直言葉にすることは野暮ったいことであるのだが、分からなさ過ぎることもあろうから、ここで言葉にしておく。
沈黙のプレゼンは思ったより強い覚悟が必要なので、是非とも興味がある人はやってみてほしい。ただ、沈黙をするということは予告されていたとすればそれはただのパフォーマンスであるように思うし、なぜそれをそうしているのかを、あえて言わないでも分かる人がいて、その人はわかってくれて、こちらが必要な支えと関わりを貫くという、愛と勇気と覚悟の結集である。
それを今日は、ひらめき、勇気を奮い立たせ、そして実践し、受け入れられたという確信があって、本当に幸せなプレゼンだったのである。人生が変わるようなプレゼンテーションというか、沈黙の実践だったと思う。
ぜひ興味があればどうぞ。
理解したい人はラマナマハリシの本を一読されることをおススメする。