もっと理解ができない領域へ
まだまだ理解をしてもらうために伝える力をつけたことが邪魔をしているという感覚があります。いやージレンマとはまさにこれかと思います。
伝えようとしているようでいて、本当は言葉で伝えたいことは伝わり切らないので、身体感覚や精神でもって本当は伝えたいけれど、社会的なレッテルに沿ったものにしないと本当にまったく伝わらず、動かしようもない。
そんなわけで、小学生、中学生、高校生と、周りが余計な知識をつけてしまって(賢くなって)、ノリだけでは感情だけでは強引に動かせなくなって、順調に論理的な情報伝達やら、小ずるいネマワシみたいなものを覚えていくことで、うまく人に関わってもらえる方法を身に付けてきました。
それがぼくがメシを食うスキルのひとつになっている、間違いなく。
要らないと捨てるには惜しいものだけれど、こいつに頼っている限りはひとつ深い領域で本当に思っていることが伝えられないことを感じてはいます。
それと同時に、ぼく自身がぼく自身について理解したいものを、言葉にして伝えないといけないような気持ちになってしまうことで、余計な具体性での表現が結局のところ本質的じゃない言葉の表現になってしまって、げんなりしながら結局は伝えきれないものとなることにもなるし、本当のところを掘り下げることにも集中しきれないことになっています。
社会的な存在としてやり切らなきゃいけないことをさっさと終えなければいけないのだけど、バランスよくやるには、今ぐらいのペースじゃないと少ししんどくなってしまうなと思うので、これでいいかなと思っていたりもするのですが、単なる逃げかな、なんて自分を責めてしまうときもあります。
幸いなことに、終わりは見えていて、ちゃんと自分が向き合う時期が来るんだということを見据えています。しかもそれをわかってくれる人たちがいて恐れることがないんだということすら見据えることが出来ていて、臆病者の自分が一生懸命に踏み固めてきた土壌は、まあなんとかこれで歩いていけるようだという気持ちにさせてくれ始めています。
定期的にこうした状態になります。
言語と感覚が混ざって、わけのわからない感じになる。
こうしたときは、言語と感覚だけじゃなくて、事象と事象同士も混ざっていて、境界線がなくなって、認識としてだけでなく、事実としてどの事象に関与していても、すべての事象に関与していることと一致するような感覚にまで混ざっていて、それはとても興奮というか高揚というか、幸福感っていうのかもしれない感じになります。
だいたい普段つかっている言葉は、ぼくはかなり世の中の空気を読んで置きにいくような感じで丁寧に投げています、これでも(笑)
それでもこうした感覚の時だけ、ときどき「おお、印象だけが飛んできた」みたいな雰囲気になるのだろうなと思いながら言葉が浮かんできます。
でも、これはまだまだ。もっと理解できない領域があるということがわかっているので、もう少し深く潜れるようになりたいものだなと思います。
息継ぎなんかするから、深く潜れないのかもしれない。