希望という重み
気楽な生き方をしていると、期待されることと概ね無縁になります。
これは本当に身軽で心地が良いです。
自由気ままとは、かけがえのないものだと思います。
仮にそれを手離すとすれば、なにかよほどの事情がないと全くやってられませんが、人生を保守的に生き抜くために、死なない選択をした覚えがないというのもまた自分がひとつ確信している答えのひとつです。
仏経に出遇うことで、縁が深まり、この方向で生きていこうという気持ちが固まり、徐々にエア寺の活動も穏やかに広がりつつあります。
集う人たちの優しさと個性ある性格と実直さに触れると、心がとても優しくあり続けられるので、こういう場をつくり、また共に発展させていくことを大切にしていきたいなと今も考えています。
仏教を学んでいると、日本にある仏教の大筋は大乗仏教であるということに気付くわけですが、「大乗」=大きな乗り物、ということで、多くの人を救うべく展開・変化していった仏教であることを知ると同時に、根本にある哲学的思考には「空」の思想があることを学ばせてもらいました。
そしてこの「空」の感覚というのは、常にさらされる、悩み苦しんでいつかは死んで消えて無くなる「個」という感覚に対し、絶対的に消えて無くなることもなく、在り続ける「何か」というものに対する、多くの先人達が同様に向き合ってきたことへの思索の旅を言葉にしたものだったと知りました。
その感覚からすれば、「個」として認識するなにかのものごとがすべて、空に含まれるすべての要素で構成されていて、しかも個別で見えていても結局はすべて同じものであるという答えに行き着く事になります。
すなわち分別がなく、いわゆる真実=実体そのものが一つであるということを知り、確信し、それを感じて日常を過ごすということを始めたことがとても豊かな時間を過ごすきっかけだったと思っています。
一方で、自分という存在が歩んできた軌跡は、諸々の事情により多くの経験と知識を身に付ける事になり、そして大きなものではないにしても、幾らか実現したものを持って、「なんかしてくれそう」という期待を生みます。
実際に、この身体で持って歩んできた暮らしは、いろいろな経験に基づいていて、とても面白い景色をたくさん見せてくれるものです。最近になって、落ち着いてきたかなと思っていますが、少し落ち着いて動き始められたからこそ、つくったものが着実に形になっていきそうな形で育ってきました。
専ら「作為をし過ぎない」ことを、できれば「全く作為しない」ことを目指せるように生き始めていると言えるでしょう。
それは必要以上に恐れることなく、愛を語るとか、勇気を示すとか、希望を言葉にするとか、生き死にとは何かということを明確に伝えていくとか、そういうことなのかもしれません。
例えば自分の存在が誰かの希望となる可能性があるとき、自分の振る舞いや意思決定に恐れが生まれるとして、それは一体「誰が何を」恐れているのかを考えています。
つくづく学び深くて、良い人生です。