人が来てくれるということ
丹波市というけっしてアクセスがめちゃくちゃ良いわけでもない町で暮らす僕は、片づけきれなかった家を、いま一生懸命に片づけている途中である。
昨日もほんとにありがたい手助けを頂いて、木々の剪定は控えめにいっても6割ほど終わってきたし、草原のようになっていた庭の草たちもずいぶん綺麗になって、これからは「葛(クズ)」の中ボスや大ボスみたいな根っこを根絶させる作業に向かおうと思っている。女子の手首くらいある根っこを。
スケジュールに余裕がないため、家に帰る時間が少なく、ペース的にはそんなに早く進められていないけれど、外庭も片付きつつあるし、蔵の大量の荷物たちは一旦移動させることが出来て、今から倉庫に運ぶばかりである。
もともといた会社の伝説の先輩たちが手伝いに来てくれた。大好きな先輩たちが丹波を好きになってくれて、みんなで遊びに来てくださっている貴重な時間の中で、「いたるの手伝いをしてあげたい」という先輩の提案に、一同が「もちろん、それをやろうよ」って一致してきてくださったとのこと。
孤独な作業だったら、本当にただ単なる苦行だったなと思う。けれど決して一人で生きていこうだなんて思ってもいないし、生きていけるとも思わないから、そもそもそうして一人で生きていきたいなんて思ってもいないから、助けてほしいと素直に口に出し、時間に余裕がある人たちが助けてくれる。
昨日はそんな助けをありがたく感じながらも、自己嫌悪モードが炸裂していて、なにも返せない自分にただただ凹んでいて弱音をもらしていたが。その度にいろんなことを言われては、ありがたいような、情けないような、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちになったりした。
「それはいたるさんに魅力があるからですよ」
「いままでの関わりが返ってきてるんですね」
「みんなあなたが好きだから来てるんじゃん」
「横田さんがなにか期待させる力があるからでしょう」
「なんかねえ、ワクワクさせてくれるんですわ」
こんな言葉をもらえる人生ってことに感謝して、認めなくちゃいけない。
そんなもんないよ、と僕は思っているけど、そうでもないんだということ。
みんなが嘘をついているわけではなく、無理やり励ましているわけでもなく、ただその客観的な事実を言葉にしてくれているだけなのだということ。
もちろん僕の生き方や考え方に興味をもっている人がいるから、どっかに話をしにいったときに人がきてくれることもある。それは主催者の方が努力をしてくれて、やっとこさ来てくれて、それがきっかけで出会える人達もいてこれは本当にありがたいと思っていて。実感をしきれていないけれど。
とてもいい言葉をくれた大切な存在からの言葉はこういうこと。
「自分もだけど、あなたも瓶のようなものだ。
ラベルに『不思議な人』と書いてある。それをみんなが期待してくれてて、自分もそうありたいと願い、そうであると感じて、そのほうがイケてると思ってたりする。だけどそこに本当は中身がないことを恐れている。
自分だけはそこに不安を抱えているけど、なんとなくこれでいいような気がして。でも全部それをわかって自分みたいなややこしい瓶を、ラベルも中身もわかって丸ごと、ぜんぶ受け入れてくれたらいいのにと願ってたりして。
だけど本当にそんな存在が現れて、受け入れるよって言葉をもらったとしても、瓶を開けるときには急に不安になって、『いや、ちょ、、ちょっと待って!!』って怖じ気づくような、そんなことをしているような気がする。
開けても大丈夫だとあなたは人には言うのに、あなたは開けないのかな?
自分だけは開けられちゃいけないんだって、どうして思うのかな?」
そうか、そうかもしれないなと思った。
そして瓶はちゃんと透明なので、実は中身は見えている。きっと。
不思議な人というラベルは単なるきっかけであって、自分だけがそのラベルだけに囚われて、詰まってもいない自分の中身を隠さなきゃいけないなんて思い込んでいたりするものかなと思う。そんなもの、みんなもう見えてる。
それでもなお、こうして人は関わろうとしてくれて、助けてくれて、一緒に生きていこうとしてくれている。すこしずつ人は集まってきてくれて、徐々にこの場所は居場所になる。本当に居心地の良い居場所になり、みんなにとってもとても過ごしやすい場所になって、場所の魅力が人を集めていく。
いまはそうではないけど、いつかそれを振り返ることができるようになっていくから。その景色を一緒に喜んでくれる人がいるから。
その景色を作ったことを誇りに思ってくれる人たちが、その景色が出来ていくために、心から応援をしてくれている人たちがいるから。
いま集まってきてくれる人たちに心から感謝していたいし、これから集まってきてくれる人たちを心から歓迎したいと思う。
人が集まってくれる場所にすることが恩返しになるのだと信じている。