意外にわかってもらえる意外さ
なんというか、生きることの難しさ。「わかってもらいたい」という気持ちはそもそも非常に難しい感情であって、そもそも、わかってもらいたいのはそれ「誰」にわかってもらいたいのかって話があるわけで。
だって、まあそもそも自己とそれ以外があると明確に分けていくという認識を二元論っていうわけだが、それがあるから、人は自分と自分以外を明確に分けて生きることにしていて、自分が損するか、相手が損するかみたいな話も、それ(自我を自分固有存在と思い込むこと)がそもそも間違っているかもしれないという哲学だってある(それは事実として宗教的に自我を離れることに重きを置く考えがある)にもかかわらず、自分があって誰かが自分以外として感情をもって生きていることを真実だと思い込んで、それが自分という存在の、こじれた感情を理解してほしいっていう気持ちであって、そしてその相手のことすらよくわからないくせに、相手のことを理解することがめちゃくちゃ難しいとわかっているくせに、自分はわかってもらいたいというところに難しさが本当にある。
「わからないんだろうな、どうせ」っていう諦めというのか、自分が間違っているんだろうなっていう感覚をもって生きることの苦しさがあると思っていて、それを認識されないことについて「どうせ俺のことなんか見えないくせに」っていう気持ちになったり、でもうっかり見てくれたりすると「お、おまえ俺が見えるのか?」ってなったりするわけで。
ただこれまた、理解できる時もあればできない時もあって、だって心のコンディションが万全で余裕であれば相手の話もスッと聞いてあげられるんだけども、余裕がない時は相手の話をまともに受け止めて自分がなぜかあらぬ方向の話題から傷ついてしまって、どうしようもない気持ちになってしまった結果、どうしようもないコメントをしてしまって、どうしようもない気持ちになって自己嫌悪するなんてことも世の中ではよくある。
そういうわけで、時間がないから一体何を書いているのか自分でもよくわからないから、そのうちこのあたりの表現がうまくなることを期待するとして、それくらいわかるってのは難しいことであると僕は思っている。
だから、先日の「人に見えるけど人じゃないかもしれない存在」という内容に関するブログを書いたときに、思ったよりもわかってもらえることがあるということを感じて、とても驚いたし、ありがたいような気持ちになった。
そう、きっと思い込みが強いんだな、人は。
僕もいろいろな思い込みを外して生きてきているように思えても、まだまだ人が僕と同じように不思議なことを考えたり、感じたり、それが全然当たり前だと思えたりすることを、常識的な世の中においては口にしちゃいけないって思うから、言わないっていうのを、自分一人でやってるような気持ちになるけど、実はみんな多かれ少なかれそういうの持っているのかもしれないって思える気がする。
昔はそれらをキワモノとして、キワモノ会議を行っていたけど、「人の皮をかぶったナニカの集い」として装いも新たに始めてみようかなとも思う。
そのうちな。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。