繊細さを隠さない

今日はいろんな気持ちになった素晴らしい一日だったなと思う。


朝から、尊敬する社長からのいきなりの最後通告。


「昨日は丹波を案内してくれてありがとう。ものすごく良い時間やったし、ほんまに感謝してるから、お礼に感想を送らせてもらうわ。

丹波地域はほんまにええ街やし、人の可能性はほんまにあると思うわ。あと君の家もほんまに宝物みたいなもんやな、素晴らしい場所やで。

ただ、なんでか知らんけど、ちょっと地域の人たちと距離ある感じするな。貴方が地域に向き合うことから逃げてるからちゃうか、いやわからへんけどな。もし外の人たちにええ顔をしてても、中の人たちを大事にせえへんとしたら先はないと思う。もしかしたら、そうなりかけてるんとちゃうか。

あと、貴方ん家の庭な、あれは宝物やで。あれだけで人が集められるような、そんな場所にできるで。せやから今年中じゃなく、もう11月中になんとかした方がいい。一気にやってしまわなアカン。貴方はそれはできる人や。それでけへんなら、貴方と僕のご縁はもうないんやと思う。」


バコーンといきなりのお礼。これは効く。


そもそも本当に尊敬していて、いつもありえないナイスパスをくださる社長と、一昨日と昨日は本当に良い時間を過ごさせてもらって。だいたい社長がパスを投げてきてくれる時はベストタイミングなのだが、今回もどう考えてもベストタイミングだと思っている。


5年も宝物を放ったらかして、もはやなにか動き出すタイミングがあるとしたら、衝撃的な機会がないと変わらないことは自覚していたから。

そして、自分や地域との向き合い方という点においても、まあ自分の得意なことで生きていることは間違いないし、それはこれからも変わることはないけど、それでも大切な誰かが、居心地よく過ごせる居場所をつくるのだとしたら、心配りを感じられる場所でなければそんなふうにはならない。


それは具体的な我が家という場所においても、丹波地域にあるコミュニティにおいても、どちらもそういう自分のずさんな点でうまく軌道に乗らないことがあるってことを自覚している。そこを一点グサっと刺してもらった。

ほんまやなーと思うし、自覚をしている。それでも変わらないまま続けてしまっているのだということすら、社長はなんとなくお見通しで、だからこそそれが今回のきっかけで変化できへんのなら君とのご縁は終わり、なのだ。

なんて愛に溢れた指摘なのだろうな、と思った。


指摘を受けて11月中になんとかしていくための手立てを考え、そして実行に移しつつ、僕の逃げグセについて考えていた。なぜあえてずさんな人になろうとするのだろうかってことを考えた。信頼できる相手に自分だけのことを考えて話す時間をもらって、自分の気持ちを素直に口に出してみた。


するとパカーンと降りてきた。
ぼく、実は全然ずさんな人じゃないかもしれない、と。


むしろ繊細でめっちゃ細かいことが気になっているんだけれども、それを気にしていることを気にさせると疲れさせてしまうとしんどいかなーってことが気になるので、それは気にしているとは思わせないようにする、っていうことを先に考えてから自分の振る舞いを決めるくらい面倒くさいやつやと。

細かいことを言い始めたらキリがなくて、それをひとつひとつやっていたらなにもかもが動くことがないかもしれないってこともまた、自分の中にずさんな人らしさを振るまわせる理由じゃないのかという気もしてきた。


ずさんな人ってことにしておけば、細かいことはやってこないから、成果につながりやすい分かりやすいことに関わりやすく、そして退屈もしないから楽しくて、そしてなによりもほめられやすくて嬉しかったってことだ。

そうだ、僕は結局のところ本当はずさんな人を振舞っているだけで、めちゃ計算高くて、それを隠し、ずさんっぽく振る舞うことで多くのことをやっても、そしてうっかりとミスをしてしまっても大丈夫なようにしてしまって、それで自分が褒められるような仕事、取り組みやすい仕事ばっかりをやりたくて、ワガママに振舞ってきただけなんだということに気がついた。

ただ、もう一つ本当のことを言うと、両親やら友達に心配をかけさせたくないからこそ、いちいち小さなことを気にしているってことを口にしては不安にさせてしまうからいけないと思い込んで、本当に繊細で心配性なところは隠しきった上で、適当にやっていて困っているから助けて、というキャラを作りこんで、その上で人生を適当に流しているのかもしれないと感じた。


本当に本当に、ひとつひとつを丁寧にみていけば、細かいことはいくらでも気がつくし、それを指摘することも、直すこともできるけれど、余裕がないのだ。なぜかって、自分がわかりやすく褒められることばかりやりたかった時代の名残で、クセがずっとそのままだからだ。もはやそこまで褒められることに興味もないくせに、クセだけが抜けなくてずさんキャラが続いてて、そしてそれで一定の信用を勝ち得て、一定の信用をなくして生きている。


コミュニケーションの小さな小さな変化をよく見ているつもり。だからこそ多くの人が、信頼して僕に話をしてくれているのだと思う。ずさんな人間がそんな大切な話をしてもらっているわけじゃないし、みんなそんなつもりで昔の痛みをシェアしてくれているわけじゃなく、みんなは知ってそうだ。

自分だけがキャラの中に入り込んで、ずさんなキャラで適当に生きて楽をしようと、面倒くさいやつと思われないようにしようと、細かいことには気がつきませんということで配慮できなかったときの自己嫌悪を減らそうと、ずっと逃げてきたんだなと感じた。繊細そのものやないか、面倒くさいな。


それでもADHD傾向があることは間違いなく、注意が散漫なことは事実で、それがずさんであることと結びつきやすかったことも影響して、自分自身を配慮が効かない、繊細ではない、厚顔無恥な、空気は読む力が低い、相手の気持ちをほぼ無視できる、そんなキャラづくりに走ってしまった感がある。

そして掃除とか整頓とかから逃げてきたのだ。苦手だってことはあるだろうけれど、それならそれで、やりようはあって、逃げてもいいことはない。
自分ひとりでできないのなら、誰かとやってもらえるように平身低頭お願いしていくしかない。結局は僕が小賢しく逃げてきただけだよなと感じた。


ここで逃げたら、この繊細さがないものとなってしまう。
繊細さは、女々しくて、かっこ悪くて、面倒くさいやつと思われるだけで、いいことなんかなにもないと思い込んでたかもしれないけど、ちがう。

繊細でなくてどうして配慮ができるだろう。相手が喜ぶことを考えられるだろう。自分のキャラを作り上げ、逃げてはいけないと思った。


こんなに大事なチャンスはない。


つくづく今日のきっかけをくれた二人に、そして一緒に暮らしてくれているはなやぎの家族たち、そして見放さずに程よい感じで許してくれてきた友達に感謝したい。ぼくは、たぶんもう丁寧に生きていける。

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よこたいたる(お葬式研究家/呼吸の習いごと主宰)
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。