あえて泥をかぶる―榎本武揚の生き方
江戸開城によって徳川家は八〇〇万石の所領を失い、七〇万石の静岡藩として再出発した。大幅な所領の削減で禄を失った徳川家の遺臣に生活の道を与えたい。箱館(現在の函館)に地方政権を築こうとした榎本武揚の目的は、そこにあった。
榎本は実力を行使して箱館と周辺地域を占領した。この地を開拓した暁には徳川家の血筋を元首に迎え、薩長藩閥のもとでは生きていけない人々が暮らす地域にしようと考えていた。だが、資本がなかった。苦し紛れに三〇〇万坪の土地をプロシヤ(のちのドイツ)商人ガルトネルに九九箇年租借させることにしたのだが、日本の植民地化を防ぐことを目的として政権交替に踏み切った明治政府としては許し難いことだ。政府軍の箱館討伐は必然的結論といえる。
当初は優勢な海軍力を誇った榎本軍も、海難事故を続発させて戦力を自滅させていたため、勝敗は火を見るよりも明らかだった。大鳥圭介が率いた優秀な洋式歩兵の奮戦で、来襲した政府軍を苦戦させた場面もあったが、勝敗を左右するほどの戦果ではない。いよいよ敗色濃厚となると、榎本の周囲の意見は割れた。降伏か死か?
箱館に集まった人々は、必ずしも榎本の思惑に賛同していなかった。幕府再興のため明治政府打倒の機会を窺う者もいれば、死地を求めて戦う者もあり、状況に流されるまま身を置く者もいた。
死地を求めた典型は土方歳三で、降伏に先立つ数日前に、望みどおり華々しく戦死した。
かつて浦賀奉行所に勤務して、ペリー来航以来の幕政を見通してきた中島三郎助は、「是迄尽したらモウ沢山だ。此中には若い人もあるし、まだ二千余の人もあるから、是から先やって居たらどんな見っともないことが出来るか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は軍門に降伏して皇裁を仰ぎ外の者の為に謝罪するが宜しい」と主張した。
それでも榎本は切腹しようとして部下に止められ、結局は中島の進言に従って降伏を選んだ。政府軍の黒田清隆が榎本助命のため積極的に運動し、大鳥圭介ともども投獄だけで処分はすまされている。
榎本に降伏を進言した中島はというと、千代ヶ岡台場で壮絶な戦死を遂げている。死に花を咲かせた土方と中島は、いまに至るまで清々しい印象を保っている。
生き残った榎本と大鳥は、明治政府の高官に取り立てられているが、それを揶揄する声もあった。なかでも福沢諭吉は『瘠我慢の説』で、勝海舟と榎本を扱き下ろした。二君に仕えるのはやむないことだが、あまりに出世しすぎだというのである。榎本は反論しなかった。
こうして榎本や大鳥が非難されるなか、かつての部下たちで政府に出仕した人も少なくない。たとえば初代気象台長をつとめた荒井郁之助もそうだった。こうした逸材だけでなく、政府の小役人となり、あるいは軍の下級将校となって生活する旧部下たちもいた。そのような人々は肩身の狭い思いを強いられながらも、心の奥底では率先して泥をかぶってくれた榎本や大鳥に感謝していたことだろう。禄を失った旧幕臣に生活の道を与えようとした榎本の姿勢は、終始一貫していた。