
最強の女神マリア・テレジア
最強の女神マリア・テレジア 西暦1740年、ヨーロッパは動乱の時代を迎えていた。ハプスブルク家の若き女帝マリア・テレジアは、父カール6世の崩御に伴い、広大な領土と不安定な政情を受け継いだ。周囲の列強は、女帝の若さと経験不足に乗じて、次々と領土を奪おうと牙を剥く。プロイセンのフリードリヒ2世はシュレージエンに侵攻し、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは帝位を要求、フランスも参戦し、オーストリア継承戦争が勃発したのだ。 マリア・テレジアは、絶望の淵に立たされた。だが、彼女は決して諦めなかった。持ち前の強い意志と類まれなるカリスマ性で、彼女は国民を鼓舞し、軍隊を再編した。ハンガリー貴族の前で、幼い息子ヨーゼフを抱きかかえ、涙ながらに訴えた。「私と我が子を守って下さい!」その姿に心を打たれたハンガリー貴族たちは、熱狂的な支持を誓い、軍隊を送り出した。 マリア・テレジアは、戦場にも赴き、兵士たちを激励した。彼女は銃弾の飛び交う中を馬で駆け抜け、自ら剣を取って戦うこともあった。その勇姿は、兵士たちの士気を高め、「最強の女神」と称えられた。 彼女は外交にも長けていた。イギリスと同盟を結び、プロイセンに対抗した。さらに、国内改革にも着手し、官僚機構を整備し、税制を改革した。これらの改革は、戦争で疲弊した国の財政を立て直し、国力を増強させた。 8年にも及ぶ激戦の末、マリア・テレジアは、シュレージエンを失ったものの、オーストリアの主要な領土を守り抜き、ハプスブルク家の威信を保った。彼女は、その後も40年にわたり、オーストリアを統治し、「啓蒙専制君主」として、数々の改革を断行した。 マリア・テレジアは、女性でありながら、男社会のヨーロッパで、自らの力で国を守り、繁栄へと導いた。彼女は、真の強さとリーダーシップを示し、後世の人々に、「最強の女神」として、その名を残したのである。