ボローニャの恋人(2)
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人生を変える決心をした香織がまず取り組んだのは、ダイエットだった。香織は身長164センチだが、入社した頃に48キロであった体重は、最近では56キロ前後を推移していた。若い頃はスタイルだっていつも褒められてきたのだ、本来、自信はあった。
しかし、二十代の頃とは違い、少し食べ過ぎたら確実に体重に跳ね返ってきて、戻すには結構な日数を要するようになっていた。以前なら飲みに行った翌朝には体重が減っていたが、最近は飲んだ翌朝計ると体重は増えていた。あまり食べていなくても、お酒のカロリーだけで体重は増えるようになっていたからだ。
香織は、まず朝起きる時間を今までより一時間早くした。店長をしている横浜の店舗までは都心の自宅から四十五分くらいで行けるので、十時出社の日は八時に起きていたが、それをまず一時間早めた。十二時出社の遅番の日でも、以前は十時まで寝ていたところを、九時には起きるようにした。
早く起きた時間は、以前に習っていたヨガのストレッチと瞑想にあてた。香織の住む都心の部屋からは新宿御苑が見えた。その緑の景色を見ながらストレッチと瞑想をする時間は心地よかった。
まだ京都に住んでいた頃は、朝食は、一階で父と一緒に仕込みをしている母が、食堂のテーブルに用意してくれていた。一人っ子の香織は身支度を済ませると、そこでテレビを見ながら、毎朝、黙々と食べた。食事を済ませると、香織は食堂を通り抜けて学校へ行った。
「行ってきます」
「おう、車に気いつけや」
仕込中の父は料理の手を休めることなく、毎朝同じことを言った。早朝から何種類もの惣菜を作るのは大変な重労働だが、父はいつも鼻歌を歌いながら作業をしていた。
学校は小学校から大学まで、家から三十分以内で通える距離にあるところに行った。早く家を離れたい気持ちはあったが、親に負担はかけたくなかったから、大学も志望する工芸学科のある、家から一番近い大学に進んだ。それなりに繁盛しているとはいえ、小さな食堂の経営が決して楽なものでないことは、香織はわかっていた。
その頃から、会社勤めを始めれば、家と職場は距離を置くのだと決めていた。一日中、生活の中に仕事の匂いがする空間にはいたくない、と思っていたからだ。そして、入社が決まると、関東圏の勤務を希望して上京した、それから三回転居したが、新宿か池袋が最寄りの駅になる場所だった。その場所だと、家賃が高いので小さなワンルームにしか住めなかった。だが、都心の店舗なら、どこでも一時間以内で通勤できるし、狭くとも誰にも邪魔をされない小さな空間があればよかった。そこが、香織の城だった。一人で静かに過ごすのが好きだったので、狭さはそんなに苦にはならなかったのだ。
休日になれば、神田界隈の古本屋街で本を探して一日歩いたり、美術館や博物館にもよく行った。香織は子供の頃から望んでいた生活をようやく手に入れたような気がしていた。そして、仕事の経験を積むにしたがって、同期の中でも順調に出世していった。
だが、店長になると、休日でも些細なトラブルがあると携帯に電話がかかってくるようになった。多い時には、一日に何回もかかってくることも珍しくはなかったし、実際、トラブルは多かった。買った製品に対するクレームだけでなく、店員の接客に対する苦情も頻繁にあったからだ。
香織は休んでいても自分の店の様子が気になり、携帯が鳴ると、いつも身構えるようになっていった。そして、対応に追われていると、休日や時間外の店にいない時間も、仕事とプライベートな時間を完全に切り離して考えるのは、だんだんと難しくなってきていた。
それに加え、最近は佐藤美咲がいることで、店の人間関係まで気になりだし、気が付くと四六時中、店のことが頭から離れない。つまり、プライベートな時間まで仕事のことで一杯になっている自分に嫌気がさしていた。
このままでは、仕事と生活の境界がさらになくなってしまい、あの食堂の二階で悶々としていた日々とと変わらない。香織は、ライフスタイルを変えて、また仕事とプライベートを分けなくてはいけないと思うようになっていた。
ダイエットの次に、香織が行ったのはプチ断捨離である。香織は一大決心をして、無駄な洋服は処分することにした。社会人になって以来、昇給して自由になるお金が増えていくに伴い、洋服も増える一方だったが、どれだけ着ていない服があるのか。この年齢になれば、いつもある程度良いものを着ていたいと思うが、つい無駄なものを買ってしまい、狭いクロゼットには収まりきれなくなっていた。それをまず、大量に処分し、ほんとに必要な服だけにしようと決めた。
だが、これもやり始めるとまだ処分するにはもったいない、これはまた流行るかも、と思いだしてなかなか捨てられない。子供の頃は、よく母や祖母が手直しした服を着ていたので、どうしても勿体ないという気持ちが働いてしまう。京都は古い物を大事にする文化があったので、香織も自然とその影響を受けていた。
それでも香織は、頑張って三分の一くらいの洋服を処分をしたので、クロゼットは少しすっきりとした。
さて、次は髪型である。香織はお洒落のポイントは髪型と靴だと思っていた。どちらもお金を惜しむとロクなことはない。美容院は気に入ったところを見つけたら、少々遠かろうが高かろうがそこでカットするにかぎる。これまではセミロングだったが、そろそろショートにしてもいいんじゃないかと思い、かなりショートにしてみた。鏡を見た香織は、悪くはないな、と思う。
周囲の評判もなかなか良かった。でも、でもほんとはおばさん臭くなったのをみんな言わないだけじゃないか…と疑ったりもする。ああ嫌だ、イヤだ、他人の褒め言葉を素直に受けとめられなくなっている自分に対して、情けなくなる。まあでもいちおう髪型も決まった。
さあ、そうなると、あとはオトコ、そうオトコが必要である。けれども、最近はコンパには声がかからなくなったし、回りの男性もちょっとイイナと思ったらたいていは既婚者だ。仕事で接する人も圧倒的に女性が多い。そうなると、男性に対して、自分からアプローチすることが苦手な香織には、なかなかその機会もやって来ない。
たまに声をかけてくる本社の上司はいたが、その誘いは断っていた。気真面目な香織だが、過去に数か月、妻子ある男性と不倫をした時期があり、そのしんどさは充分に認識していたからだ。
「でもなぁ……」
嘆息とともに香織は呟いた。あれはあれで苦しかったが、楽しい時間もずいぶんとあった。結局のところ、人生を変えるためには動かないと、そう動かないと何も起きないのだ。
人生を変える決心をしてから三ヶ月、頑張ってはいるものの香織の置かれている状況にあまり変化はなかった。しかし、その頃、会社からある発表があった。
それは、香織の会社がこの次の海外店舗はイタリアに出すという計画であった。パリを始めとして、フランスではそれなりの実績を積んだので、次はいよいよイタリアに進出しようというわけだ。
「よし、じゃあこの次は語学だ!」
香織は決心した。もしかしたら、仕事でローマやミラノに行けるかもしれないのだ。それってかなり素敵なことなんじゃない? 元々、イタリアの靴や鞄は好きだったので、香織はイタリア語を習いに行くことにした。調べてみると都内には色々教室もあったが、値段的に手ごろなイタリア文化会館の講座を利用することにした。会館のある九段という場所も良かった。神田から近いからだ。
古本屋や蕎麦屋の多い神田あたりは、本好きな香織が休日を過ごすのにお気に入りの場所で、教室のあとに散策もできる。香織は土日が仕事なので、平日、特に月曜がほぼ休みなので、月曜午後の講座を選択した。講座開設のためには人数は四名以上集まらないといけないが、香織が申し込むと、そのクラスはちょうど四名になるとのことだった。とにかくイタリア語は初めてなので少人数のクラスがいいだろうと思った。
クラス初日、香織が教室に入ると、他の三名はいずれも五十代後半から六十代とかなり年配のおばさんであることが判明した。
「えっ、うそ~」
香織はちょっとがっかりしたが、いまさらクラスを変えるわけにもいかない。だが始めてみたら、予想外に楽しかった。
講師は、香織と同年輩のパオロで、イタリア人男性にしては服装も垢抜けないし、シャイな感じでどうみても口説いてくるようなタイプでもない。でも、パオロは日本語は堪能だったし、初心者向けのクラスということで、何よりも丁寧に教えてくれた。
また、他の三人は、語学マニアという沙織さんと、ちょっと天然系の多賀子さん、それに韓国系のキムさんというメンバーだったが、あまり気を使う必要がなく、香織はすぐにそのクラスに溶け込むことができた。九十分という授業時間はあっという間で、すぐに次回が待ち遠しくなるほどだった。
何よりもイタリア語は発音が難しくなかったので抵抗なく入っていけた。多賀子さんや、キムさんとのやり取りは楽しかったし、沙織さんは博識で色々と教えてくれた。これなら、意外と早くイタリア語は話せるようになるかもしれない、と香織は思っていた。
イタリア語に通い始めてから三ヶ月ほどした頃、つまり人生を変える決心をしてから半年ほど経った頃、会社はイタリアで店舗を出す場所を決定し発表した。それは、イタリア北中部の古都ボローニャという街だった。
「ボローニャ?」
なぜローマやミラノでないのかは香織にはわからなかったが、そこに決まったということだった。香織はボローニャのことはほとんど何も知らなかった。ひょっとして、スパゲッティボロネーゼの語源? になった街ということぐらいである。
店は、準備期間を経て今年の秋には開店するという。発表のあった時期は年明けの一月だったので、新年度の四月から新しい体制を組んで、イタリア・ボローニャ店の開店に動き出すとのことだった。ちょうど、店では本社から管理職が各店舗を回り異動希望を聞く時期でもあり、今回は開店スタッフの希望者がいれば、オープンに公募するので積極的に申し出て欲しいということだった。
香織の店にも、本社から人事課の大城課長と圭介がやって来た。香織は二人に店舗奥の事務室に呼ばれた。香織の気持ちの中では、決心が固まっていた。圭介からあの言葉を聞いて以来、店ではずっともやもやした気持ちだったからだ。
自分の性格の欠点はわかっていたが、仕事はいつも必死で取り組んできた。だから、圭介に言われても納得しきれないところがあった。この三ヶ月、気持ちの中にシコリを抱えていたのが、香織に思いきった決断を躊躇なくさせていた。数か月のイタリア語学習も楽しかったので、言葉の問題もクリアできそうな気がしていた。
「えーと、村木さんは横浜店二年目か、業績も順調に伸びてるし、異動希望は特にないよね?」
大城課長が香織に尋ねた。後ろでは圭介が表情を変えずに香織の方を見つめていた。
「いえ、実は……」
香織が言いかけたとき、圭介の表情が変わるのを感じた。香織は思いきって言った。
「実はボローニャ店に行きたいのですが……」
「ええ~!」
大城と圭介が二人して目を見合わせて驚いた声をあげた。大城も圭介も全く予想していないことだったからだ。
香織は数ヶ月前からイタリア語を習っていることを伝え、精一杯ベストを尽くすので、できればお願いしますと頭を下げた。