
わな(私立探偵 桂木祐介の葛藤)1
人生は二度ない、だから、日々後悔しないように生きろと人は言う。
しかし、事はそう簡単ではない。時に醜態をさらし、無為徒食に時間を費やす。それが、実際に生きていくという事なのかもしれない。
私の場合、二日酔いでない朝を迎えることは少ない。
その日も、ふらつく足取りで海岸通りの古い雑居ビルの狭い階段を這うように上がり、三階にある事務所の前にようやくたどり着いた時のことであった。
「すみません、桂木探偵事務所はこちらでしょうか?」
ドアの前に女が立っていた。年齢は三十代半ばくらいか。心配ごとを抱えているのか表情には翳りが見えるが、女盛りの張りのある体つきは洋服の上からでも隠しようがなかった。

白いブラウスの上に、体にフィットした上下チャコールグレーのスーツ、濃いグレーのストッキング、黒いパンプス、とびきりの脚をしている。
「あ…、はい」
私はあわててドアの鍵を開け、女を中に通すと座るよう促した。ソファは座る部分が破れているが、大きな厚手の布で覆うようにして隠してある。
「珈琲でもいかがですか?」
「おかまいなく……、いえ、やっぱりいただきます」
女はそう言って、腰を降ろした。座って脚を組むと、脚線美はさらに際立った。
「濃いめで大丈夫ですか?」
私は豆を挽く準備をしながら、さりげなくその脚を眺めた。
「ハイ……」
女は無造作に流した髪を手櫛でかきあげた。
「長く待たれてたんでしょうか?」
「いえ、そんなには」
「すみません、朝は弱いもんで」
「いえ、こちらが連絡もせず勝手に来たので」
急いでいるようだった。私は手早く挽いた豆に湯を注いだ。
女は、名前を藤川早紀と名乗った。結婚して四年、もうすぐ二歳になる息子がいるという。
「主人のことで相談に参りました」
「ご主人がどうされましたか?」
「主人の名前は藤川和彦と申します」
ありふれた名前だ。私はピンと来なかった。テレビをほとんど見ないので、ニュースには疎い。新聞も事務所の近所の喫茶店で読むだけだ。
「と言われますと……?」私は尋ねた。
「夫は先日逮捕されました」
早紀の夫、和彦は、大阪の梅田にあるH百貨店の食器売場で働いている。
自宅は神戸市の六甲山を下った、JR六甲道駅近くの高層マンションだ。梅田まではJRに乗れば、三十分もかからない。
和彦は愛人、岸根真由を殺害した疑いで逮捕されたという。先日来、テレビのワイドショーをずいぶん賑わしているらしい。
早紀は事件について話し始めた。
事件は二週間前に起きた。その日、和彦は早番で夕方六時に勤務を終えると、岸根真由の部屋に寄った。真由は和彦が店長を勤める食器売場の主任だ。この日は勤務がなく、和彦が来るのを待っていた。
真由は、六甲道駅から三駅東の甲南山手駅から徒歩で五分ほどの距離にあるマンションに住んでいる。二人の交際は三年に及んでいたが、和彦から別れ話が出ていたらしい。
それには納得しなかった真由だが、ようやく別れることに同意して、これで最後にするので、もう一度だけ会って欲しいと和彦にLINEを送信していた。それに応えて、和彦は会いに行ったのだ。
そこで、求められるままに断り切れず関係を持った和彦は、コトを終えた後、見送られて部屋を出た。そして、甲南山手駅をほぼ終電に近い十二時前のJRに乗って六甲道に帰った。
翌日、和彦が出勤しても真由は来ていなかった。売場は正規の社員が四名、パートが三名おり、交替で休んでいるが、その日は歳末の売出しに備え、正社員は全員出勤するはずの日だった。
真由がそれまでに無断欠勤したことはなかったので、同僚の社員が心配し、携帯に何度か電話を掛けたが応答はなかった。その翌日も無断欠勤が続いたため、心配した和彦が警察に届け出た。
警察が駆けつけたとき、部屋は施錠されていた。警察はマンションの管理会社や東京に住む真由の父に連絡を取り、警察官立会のもと、管理会社の社員が鍵を開けたところ、全裸で絞殺されていた。
首には紺無地のネクタイが巻かれており、体内からは男性の精液が検出された。部屋に荒らされた形跡はなかった。
真由の住まいはオートロックのワンルームマンションで、玄関ホールにはカメラも設置されている。住人以外も出入りする者は映像に残るが、不審者の出入りは無かった。ドアには鍵がかかっていたし、部屋は八階にあり、ベランダからの侵入も困難だ。
それにベランダにも鍵はかかっており、ブラインドも下りていた。つまり、完全な密室だったわけだ。犯人は性交したのち絞殺し、玄関から出て行き、鍵をかけたとしか考えられなかった。
そのうえ、和彦は部屋の合鍵を持っていた。警察が任意同行を求め事情聴取したところ、事件への関わりは否定したが、真由の体内の精液をDNA鑑定した結果、和彦のものと一致したため逮捕された。以上が事件の主な顛末であった。
しばしの沈黙のあと、私は切りだした。
「奥さん、出身はどちらですか?」
早紀の言葉には、関西訛りがなかったからだ。
「東京ですが……」
「ほう、実は私も東京でして」
私は東京という欲望の坩堝(るつぼ)が嫌になり、神戸まで流れてきた人間だ。だが、もちろんこの港町が楽園だったわけではない。
「え……、どちらなんですか?」早紀が聞いた。
「豊島区です。こちらに来るまでは池袋が庭みたいなものでした」
池袋、雑然としたカオスの街、思い出すとほろ苦いが、懐かしく胸が痛む街。
「私は……、池袋はアルバイトをしていたことがあります。住んでいたのは高田馬場です」
高田馬場なら豊島区の隣の新宿区、JRで二駅、池袋からも近い。私は早紀に親近感を覚えた。
「ご主人とは、どうやってお知り合いに?」
「主人が有楽町のH百貨店に勤務しているときに、私のアルバイト先に来て知り合いました。そして、主人が大阪に転勤する際に結婚してこちらに来ました」
「ほう、池袋のバイト先で……。で、ご相談というのは?」
「夫はやっていません、夫の無実の証明をして欲しいのです」
「……」
私には、完璧な証拠が揃っているようにしか思えなかった。
「あの人は虫も殺せぬ人です。こんな大それたことをするはずありません」
早紀は真剣にそう思っているように見えた。しかし、私は冷徹に言った。
「虫も殺せぬ人が、三人の女性を殺した例を知っている。それも、切り刻んでね」
「ひどいことをおっしゃるのね。夫が犯人だと?」
「現実を受け入れることは難しいもんです。まして、それが殺しの場合には」
早紀は憤慨したようだった。鞄を取り上げると立ち上がった。
「私の見込み違いだったようです」
「すみません」
私も立ち上がったが、内心ではとびきりの脚をもう少し眺めていたいと思っていた。
「県警に夫の面会に行きましたが、会わしてもらえませんでした。絶望して県警を出ようとしたところで、呼び止められたんです」
ドアノブに手をかけていた早紀だが、振り返るとそう言った。
「呼び止められた?」
「あなたと同じくらい背が高くて、銀縁眼鏡をかけた人です」
「低い声の?」榊のことだろうか?
「そうです。その方が、ここの名刺をくれたんです」
「で、何と?」
「奥さん、警察の捜査には限界がある。ご主人が無実と思うなら、この男に相談してみなさい、と言われました」
「ほう……」
私は突き放すべきだと思いながら、ためらってしまった。
「でも、勘違いだったようです」
早紀は、再び出て行こうとした。それが、この件に関わらずに済む最後のチャンスだった。しかし、私は、その背中を呼び止めていた。
「この件、請け負いますよ」
(続く)
いいなと思ったら応援しよう!
