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ボローニャの恋人(4)
4
香織はフィレンツェに来るのは始めてだったが、街のチェントロ(中心部)に足を踏み入れた瞬間から、この街の特別な空気を感じていた。数多くの芸術家が愛し、絵画や小説、映画の舞台になった街。中世からの名残りの車の入らない細い路地、パトロンのメディチ家が残した無数の文化遺産。この街に皆が魅了されるのは来てみてわかった。
ボローニャも古い建造物や教会はあちらこちらに点在しており、見る物には事欠かない街だが、フィレンツェは街そのものがまさに美術館であった。
路地裏に入ると、彫金や額縁、皮細工などの工房が点在し、通りから中で作業をする職人たちの様子がうかがえた。地元の食堂と呼べるような、こじんまりしたオステリアやパスティッチェリーア(菓子店)やバールが何軒もあった。
工房の人と視線が合うと、笑顔を返してくれた。時には、入っておいで、と手招きしてくれる人もいた。皆、フレンドリーで楽しそうに仕事をしているように見える。
香織は生まれ育った京都を思い出していた。京都の路地裏にも、あちらこちらにさまざまな工房があった。それは大概、昔からの町家を改装したもので、入口の軒下はやや暗いが、奥に細長く、入っていくと職人たちが細かな作業をしたり物づくりをしていた。
毎日歩いた出町柳の商店街は、一階が店で二階が住居の商店が多かった。煎餅を焼く店や、和菓子の店、小さな文具店、惣菜店、呉服店、古本屋、様々な店が軒を連ねていた。学校から商店街を歩いて帰っていると、小さい頃から顔見知りの近所の店のおじさんやおばさんから声をかけられた。
「香織ちゃん、お帰り」
「ただいま……」
声をかけられると、シャイな香織はたいてい小走りになり、逃げるように食堂に帰った。下を向いて歩いていると、
「お、香織ちゃん、元気あらへんな。どないしはったんや?」
近所のおじさんから、そういうふうに言われた。食堂に帰ったら帰ったで、ひっきりなしにやって来る常連のお客さんにビールを持って行ったり、配膳をしていると声をかけられた。
「香織ちゃん、大きなったな」
「別嬪さんになったなあ」
香織は返答に困り、曖昧な笑顔で返すことしかできない。そこは、誰もが顔見知りな場所だった。
一段落して二階に上がれば、ビールでほろ酔いになった父が下着のシャツ姿で寝ている。自分一人で、誰にも干渉されない場所に居たい。ここから早く離れたい、逃げ出したいと思い、社会人になると一目散であとにした京都だった。実際、東京に居るときにはあまり思い出すこともなかった。
しかし、フィレンツェの街を歩いているとその景色が蘇えってきただけでなく、何故か懐かしさを覚えるのだった。
圭介はこの街が始めてではないようで、フィレンツェのサンタマリアノヴェッラ駅からチェントロまでの道を、歩いて香織を案内した。二人はドゥオモ(大聖堂)に入り、高い天井を見上げた。
「高いね~、首が痛くなっちゃう」
香織は上を見上げた。
「だね。京都のお寺もここまで天井は高くないもんな」
圭介は香織が京都出身ということは知っている。
「うん。でも、私、実は京都のお寺はあんまり行ってないんだ」
「へぇ~、なんで?」
「どうしてかなあ……」
香織は考え込む仕草をした。だが、自分ではわかっていた。京都にあんなに沢山あったお寺も、当時の香織には、左京区の食堂の延長線上にあるものだったからだ。古いお寺や侘び寂びの枯れた魅力より、開かれた都会に出ていきたい気持ちが勝っていたからだ。
ドゥオモを出た二人は、アルノ川沿いをピッティ宮まで歩き、オステリアに入った。二十人も入れば一杯になりそうな、地元のお客さんが大半を占める、ほんとのシンプルなトスカーナ地方の料理が食べれるお店だ。二人掛けの向かい合わせの席が幾つかと、真ん中には、七~八人で囲めそうな大きな木のテーブル。小さなテーブルには白いクロス、大きなテーブルには各席に白いランチョンマットが敷かれている。
音楽はかかっていないが、厨房の注文を捌く声や、お客の話し声がほどよい喧騒を生み出していた。ワイングラスではなく、コップになみなみと注がれたワインを、皆、楽しそうに飲んで話している。
あ、この感じ……、香織は一瞬、実家の食堂のデジャブを見たような気がした。香織はワインのグラスを持ち上げて、液体ごしに店内を眺めた。そこに、出町柳の食堂の光景が見える気がする。あの喧騒は苦手だったなぁ、でも、なんで今はこんなに心地良いのだろう。
白一色のシンプルなお皿に盛られた料理も、凝った盛付など一切ない。ただ、ストレートに美味しい。気取った形容や感想など無用だ。香織も圭介も、何杯もワインをおかわりして、心からリラックスして、笑った。
メインのTボーンステーキで香織は驚いた、1kgはありそうだ。
「わっ、ちょっと何? この大きさ、食べきれないよ!」
「ま、そういわず食べてみなよ」
圭介がそう言うと、馴れた手つきで絞ったレモンをステーキにかけた。
「いくよ~!」香織が最初の一口を口にした。
すると、炭火で焼いたキアニーナ牛の香ばしさ! 赤身で油が少なく、日本とは違ってレモンを絞って食べるのであっさりしていて、いくらでも食べれる感じだ。
「何、これ? 日本のステーキと全然違う」
「だろ? これがフィレンツェ名物さ」
「へ~」
香織はお腹一杯食べた。そして、久しぶりに話すことができる日本語で、思いのたけを圭介にぶつけた。話し出すと止まらなくなり、次々とイタリアの愚痴を言ったが、圭介はただ微笑んでうなずいていた。
そして香織の愚痴には答えず、呟いた。
「オステリアっていいよなあ……」圭介が呟いた。
「そうねぇ……」
香織は実家の食堂の喧騒を思い出していた。店には近所の職人さんもよく来たが、アーティスト風の若者たち? いや、時には芸術家気取りのおじさんも来て、よく議論をたたかわせていた。
曰く、ピカソほど偉大な画家はいない、
曰く、いや俺は仲買人から転身したゴーギャンこそ偉大だと思う、
曰く、日本からパリに行った藤田嗣治もいるぞ、
いや、それなら、藤田より佐伯祐三こそ偉大だ、
等々、週末の夜になるとそんな会話が左京区のあの小さな食堂でよくたたかわされていた。
「おい、大将の意見を聞いてみよ!」
そんなとき、酔った青年から厨房の父が呼ばれる。もとより芸術のことなど興味のない父は、呼ばれてもただニコニコして側で話を聞いているだけだ。
母は母で、店が騒がしくなっても我関せずで、その日の売上の計算をしながら、店の片付けを始めだす。
あ~、もう、ここから逃げ出したい! 香織は喧騒の片隅で、あるいは二階で、そう思っていた。だが、今、オステリアの喧騒に身を委ねていると、心地よく酔いが回っていくのを感じていた。
食事の後、圭介はタクシーに香織を乗せるとミケランジェロの丘に連れていってくれた。そこは坂を上がった高台なので、フィレンツェの街全体が一望に見渡せた。ドゥオモの大クーポラ(丸天井)やジョットの鐘楼が街の灯りに照らされて荘厳な雰囲気を醸し出していた。また、夜の闇の中でも光を反射して映えるアルノ川の水面、その幻想的な光景は、香織の心を強く打った。
そして、香織は涙が止まらなくなった。
「圭介、ごめん。今日は愚痴ばっかりで」
「いいさ。慣れない土地、それも言葉さえろくに通じない異国で仕事してりゃ、誰でも愚痴を言いたくなるさ。気にすんなよ」
圭介は、その手を香織の肩に回した。
「圭介……」
この国に来て三ヶ月、香織は緊張と怒りの連続であったが、そんな気持ちが溶けて流れていくような気がした。
「圭介の手、あったかい」香織は圭介が肩に回した手を握った。
「この手の感触、久しぶり」
圭介の器用な指先の感触を、香織はまだ覚えていた。
「ねえ、圭介」
「うん?」
「圭介はやっぱり私の中ではオトコ、ううんコイビトだよ」
香織は言った。
「はは……」
圭介は、少し苦笑いした。
「圭介は?」
香織は圭介の肩に頭を乗せると、顔を近づけて聞いた。圭介は少しためらっていたが、
「う~ん、そうだな、香織はさしずめ、ボローニャの恋人かな」
そう言うと、少し照れたように微笑んだ。
「もう! いじわるねぇ、そんな言い方、まるで愛人みたいじゃん。でも、今日は許したげる」
そう言うと香織は圭介に顔を近づけた。二人はキスをした。始めはそっと。けれども、すぐにそれはディープキスになって強く抱き合った。
その夜、フィレンツェのホテルに泊まった二人は、六年ぶりに愛し合った。深い満足感に包まれた香織は久々に熟睡した。また開店した際には再会することを約束して、圭介はイタリアを後にした。
圭介が日本に帰ってからも、香織の悪戦苦闘の日々は続いた。店は勿論開店予定には間に合いそうもなかった。しかし、香織も少しずつだが、この国の習慣に慣れてきていた。そして、自分だけが頑張れば頑張るほど、空回りするということも気づいていた。
ここは日本ではないのだ。日本なら店長である香織が頑張っていれば、部下の店員は黙っていてもやってくれるが、ここでは明確な指示を出さないかぎり、誰も動いてはくれない。皆、何よりも自分中心、自分が楽しむために生きているのであって、日本のように他人の目を気にしてはいない。この国にいる限り、ここの習慣に合わせてやっていくほかはない。そして、何よりも自分自身が楽しまなくてはいけないのだ。
そう思えるようになってからは、少しずつだが気は楽になっていった。開店は予定に多少間に合わなくても仕方がない、休みの日には無理して出勤するのは辞めにして、ボローニャを散策し、近郊の町やミラノを回ってみようと思うようになった。
そうして行くようになってみると、ボローニャという街はどこに行くにも本当に便利な場所であった。電車を使うにしても、バスを使うにしても、ちょうどイタリア中北部のハブとなっている場所がボローニャなのだ。
また市内にはイタリアでも重要ないくつかの教会があるので、市内を散策するだけでも一日は充分に過ごせた。特に中心部にある「古い七つの教会」は香織の店からも近く、時間があればたびたび寄るようになった。ひとつひとつの教会にそれぞれ特徴があり、何度通っても飽きなかった。
考えてみれば、ボローニャは京都の街によく似ていた。沢山の教会に大きな大学、また美食の街と言われているが、海に面さない内陸に位置している。北イタリアの交通の要所で街の中心部の地形は平坦だ。
共通点が数多くあった。違っているのは、京都は街の中心部に鴨川があったことだ。香織がまだ京都に居た頃、一番好きだった場所、それは街の中心を流れる鴨川の川べりだった。香織は地元の小、中、高と通ったあと、大学に進んだが、大学も家から、三十分程度で通える近い場所だった。だから、出町柳の商店街から数kmの圏内が香織の世界だった。けれども、鴨川の川べりの道を吹いている風にあたって歩いているときだけは、その道は何処か遠くの開かれた世界につながっているような気がした。実際、何処へ行くにも、川べりをよく歩いて行った。
また、出町柳の自宅と大学を結ぶ線上にある下鴨神社の参道、糺(ただす)の森もよく歩いた。平日のまだ人の少ない時間帯、糾の森の静けさの中を歩いていると、食堂での喧騒を忘れることができた。読書が好きな香織は、毎年、そこでお盆前に開かれる古本市にも必ず行った。近畿一円から古本屋が参道に出店するのだ。森の中を歩いて、時々、休憩しながら古本を探して歩くのは楽しかった。
香織が就職して東京に行く前の日、父の提案で店を早めに閉めて家族三人で食事に行くことになった。週末の金曜日ということで、かき入れ時でもあるから、母はちょっと不満そうだった。お金に無頓着な父とは違い、母はそういうところには細かかった。だが、勿論母のそうした合理性が店を維持していくことに必要だったのも確かだった。
香織は行った店の名前も忘れてしまったが、祇園の方にある、かなり老舗の鯖寿司の店だった。京都市内なら鯖寿司はどこでも食べれるし、普段、食堂でも鯖寿司は出していたから、またなんで鯖寿司なんだろ、と思ったけれど、それは父の希望だった。
普段、父は家族の前では無口なので、その日もなかなか話ははずまなかった。お酒もそんなに強くないので、ビールで顔は赤くなっていた。父があまり話さないので、香織の方から口火を切った。
「なあ、父ちゃん、毎日毎日、あんなに朝から晩まで働いて、お客さんの我儘にもつきおうて、しんどないん?」
「…そら、別に大したことない」
少し間を置いて父が答えた。
「休みも無いやん?」
「休みか…、休みな、休みがあったらええか?」
「ええに決まっとうやん。そやから会社員になるんや。父ちゃんかて昔してたんやろ?」
父は手酌でビールをお代わりした。
「そやな、やってたわ。親父の食堂、俺にはできん思てな」
「ほんなら、なんで継いだん?」
「…わかったんや」
「何が?」
「京都で、しかも出町柳で食堂ができるいうことを」
「何なん、それ?」
それには答えず、父はちょっと笑って、またビールを飲んだ。
「もう、ちょっと酔うてはるんや」
母さんがそう言うと、父は
「アホか!」と言った。
「もう、ちょっとここでも喧嘩は辞めてよ」香織がいさめた。
そんな話が、実家を離れる前日の最後の会話だった。
(続く)
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