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わな(私立探偵 桂木祐介の葛藤)2

 県警を表玄関から入るのは、気おくれするものだ。
 ましてや、無精ひげも剃らず、皺だらけのスーツで、警備の警察官が起立している横を通るのは。
 勤務していた頃は、いつも裏の職員通用門前の喫茶店でモーニングを注文し、課の朝礼に間に合うよう駆け込んでいたが、マスターとつい話し込んで、よく遅れたものだ。
 できることならあの苦味の効いた珈琲を飲みたいが、県警を辞めてから店にも顔を出していない。もう何年になるだろうか……。
 
 私はエレベーターに乗ってフロアを上がり、廊下を抜けて捜査一課に行くと、榊に面会を求めた。多忙を極める捜査一課長だ。来る前に電話でアポは取ってあった。しかし、フロアの知った連中の視線が痛い。
 何人かは、私がここに来るのを快くは思っていないだろう。私は、かって重要な案件の捜査で失態をおかしてしまい、刑事を辞めたのだから。
 
 部屋に入ると、古びてはいるが重厚な革張りのソファが目に入る。なんといっても、ここは県警の看板部署である。
「よお」
 デスクに座っていた榊はたまった決済の処理をしていたが、身振りで私にソファを勧めると、印鑑を机の引き出しにしまい、私の前に座った。
「今どき、手書きの書類に印鑑か?」
 警察の職務は未だにアナログな部分がついて回る。私は軽く揶揄する口調で言った。
「全く、嫌になるで。捜査以外にも事務処理が多くてな。これじゃ、まるで事務屋や」
 銀縁眼鏡を外して机に置き、長い足を組むとぼやいた。
 
「どういうことだ?」
 私は名刺を榊に見せた。早紀が持ってきたものだ。
「どう思う?」
 榊はニヤッと笑った。
「何が?」
「できすぎている、そう思わへんか?」
「できすぎている、というか疑う余地はないな」
「ああ、全くな。そやから、警察ではこれ以上動きようがないんや」
「だから名刺を?」
「お前なら調べられるやろ」
「余計なことを……」
 私はそう答えたが、榊のいう意味もわかった。

 全裸で絞殺された女の遺体から、愛人である男の精液が検出された。部屋は密室、物取りの可能性無し。二人は別れ話をしていた。痴情のもつれからくる殺人。よくあるパターンだ。
 警察の事件としては、一件落着である。多くの案件を抱えている捜査一課なら、すぐにも次の事件に移行せねばなるまい。
「匂うんや」榊は言った。
「この鼻がな……、いやな習性や」
 榊は人差し指で鼻をはじいた。
「事件について、報道以外にわかっていることは?」
「いや、この事件についてはほとんど報道の範囲が全てや。自分が動ける立場なら、イチから当たってみるんやけどな」
 榊は捜査一課長だ。自ら動くのではなく、指示を出すことが仕事だ。
「わかった」私はそう答えると、立ち上がろうとした。
「ああ桂木、ひとつだけ」
「なんだ?」
「被疑者の奥さんには手を出すなよ」
「馬鹿野郎!」
 私は県警を後にした。
 
 榊はイチから調べろ、と言った。奴は頭がきれる。私は榊の言葉通りにすることにした。
 
 まず向かったのは、甲南山手駅近くの真由のマンションだ。駅を南に降りると建物はすぐにわかった。九階建ての白亜色のマンション、築五年といったとこだろうか。
 和彦の住む六甲道駅からは三駅、距離にすれば五キロ余り。駅からもほど近く、幹線道路から少し入ったところにあるので、人通りも少なく出入りは目立たない。隠れて会うには、都合の良い場所と距離だ。しかも真由の部屋は八階なので、部屋で会えば人に見られる心配はない。また終電を逃してもタクシーを使えば、国道二号線を走って十分もあれば六甲道の和彦のマンションまで帰れる。
 
 次に私は、H百貨店の食器売場に向かった。H百貨店はJR大阪駅を降りて徒歩三、四分、大阪駅周辺では最大級の百貨店で、特に梅田界隈では老舗として知られている。その七階に食器売場はあった。
 私は一般客を装い、食器売場を歩いてみた。食器売場には、数名の女性店員がいた。ここで、和彦は店長、真由は主任をしていたが、報道では二人の関係は事件が起こるまで、店のスタッフには知られていなかったという。本当にそうであろうか? 

 私はフロアをざっと見わたし、年配でふくよかな体つきをした店員に声をかけた。女は「たかい」という名札をしていた。
「すいません、中華鍋はありますか?」
「はい。コンロはガスですか? それともオール電化のタイプですか?」
「それで違ってくるんですか?」
「ご覧になりますか…」
 女は私を鍋のコーナーに案内した。これで、他の店員達とは少し離れることができた。
「ほら、こちらのビタクラフトの鍋なら底が平らになっています。これなら、オール電化タイプでも使えますよ」
「昔風の、底の丸い中華鍋はないのかな?」
「ありますが、コンロのタイプにあうかどうか? ご自宅用ですか?」
「いや、家で料理はしない」
「は? じゃお店か何かで?」
「いや……、これのうちで使おうかと思ってね」
 私は、小指をたて意味深な笑顔を見せた。
「あら、じゃあ多分こちらのタイプでしょうね」
 女は歯茎を見せて笑うと、ビタクラフトの鍋の方を指差した。こういう話に抵抗なく乗ってくれる女なら話はしやすい。
「ひとつ教えてもらえるかな?」
「なんでしょうか?」
「藤川和彦と岸根真由さんの関係は、店の中では本当に誰も知らなかったのかな?」
 私はいきなり本題を切り出した。女は一瞬呆気に取られた表情をしていたが、店内に視線をやり、体をかがめると声をひそめて聞いてきた。
「週刊誌の方ですか?」
「いや、こういう者です」私は名刺を差し出した。
「藤川和彦の妻から、事件の調査の依頼を受けています。ご主人は無実と思われている」
「私もそう思いますよ」
 女の口から思わぬ言葉が返ってきた。
「会社から、事件については話すなと言われてますが、あの店長がそんなことをするとは信じられません」
「ほう……、二人の関係はご存じだったんですか?」
「ええ、店の子ならみんな知っていたと思いますよ。なんとなくですけども……。店内ではお二人はよそよそしくしていたんで、かえって怪しいと思ってました」
「なるほど」話好きな女だ。
「事件の日のことを教えてもらえますか?」
「それはあなた、ここではまずいわよ」
 女は小声でそう囁くと、私の肘を軽く引っ張った。平日午後の百貨店、暇を持て余していたところに思わぬ来客があり、少し興奮しているといったところか。
「どこなら聞けますか?」
「三時半に、九階の「Cafe古都」に来て」
 
 私が「Cafe古都」に入って珈琲を飲んでいると、三時半を少し過ぎて女はやって来た。百貨店の制服の上にカーディガンを羽織りボタンを留めているので、一見では店員とはわからない。女は口紅を塗りなおしたのか、厚めの唇は紅く光沢を帯びていた。
「ここは抹茶ロールが美味しいのよぉ」
 そう言うと、女はそれとミルクティーのセットを注文した。おそらく休憩時間にはよく食べているのだろう、豊満なはずだ。
「で、どこから話したらいい?」
「事件当日のことを話してください」
「そうね、あの日は歳末に向けて売り出し準備で、展示品の改装をする予定やったわ。それで、社員は全員出勤の予定でした」
「社員は何名ですか?」
「店長と岸根主任、それに私、大木さん、あとパートで三名、中川さん、石川さん、太田さんがおられます」私は名前を手帳に書きとめた。
「でも、朝から主任が出勤してなくて。それまで無断で休まれたことはないんで、どうしたんかな? 言うてたんです」
 抹茶ロールが運ばれてきた。女はフォークで一口大に切り口に運んだ。
「あー、美味しいわぁ。食べてみはります? いいですか。じゃ、遠慮なく。ああ、そうそう、さっきの続きですけど、それで最初は寝過ごしはったんかな、とかみんなで言うてたんですけど、今まで一度もそんなことはない人ですし、何の連絡もないもんで携帯に掛けてみたんです」
「それは高井さんが?」
「いえ、石川さんです。石川さんは主任と歳も近いし仲も良かったんで。でも応答ないわ、いうことで。それで、店長にどないしましょう? って聞きに行ったんです。そしたら店長はもう少し待とう、言いはって」
「自分で連絡をしたのかな?」
「そうやと思います。多分、店長は朝から主任が来てないんで、何回もLINEと電話をしてはったと思います。なんかそわそわしてましたから」
「結局、連絡はつかなかった」
「そうです。それで二時頃になって、店長も何か事故でもあったんかもしれんなぁ……、言いはって」
「そのときの様子はどうでした?」
「本当に心配してはりました。そんな演技してるようにはとても見えませんでした」
「なるほど、店長と主任の関係はみんな知ってたと言われましたね?」
「多分…、ですけどね。少なくとも、私は感づいてました。店長は男前やし、主任は美人でお父様は人権派の高名な弁護士でお嬢様育ち、ほんまお似合いでしたから。けど店では二人とも仕事のこと以外一切話しはらへんので、ああこれは間違いないな、と思てました」
「なるほど、鋭いですね」
「あら、だってそういうもんちゃいます? お互い意識してると、そうなるもんでしょ?」
「まったく」たいした観察眼だ。これだから女は侮れない。下手な刑事より、女の目の方が確かなことは多い。

「別れ話がもつれている、ということは感づかれてましたか?」
「そこまではっきりとは。特に店長は何事にもそつなく対応する方ですから、そんなことは、お二人とも一切表に出しはりませんから、でも……」
「でも?」
「主任は気持ちを隠しきれんほうなんで、イライラしてはるなあ、とかそういうのはわかりましたね。特に、一年くらい前からは波があったように思います。機嫌がええ日はすごくええんですけど、悪い日はもう……」
「とにかく、夕方になっても連絡がとれないんで、警察に連絡したということですか?」
「いいえ、警察なんて。そのときはこんなことになってるなんて夢にも思いませんから」
「じゃ、その日は特に何も?」
「ええ、店長も今日一日は様子を見ようと言いはって」
 和彦は、そのときは自分で帰りに様子を見に行くつもりだったのだ。
「それで、次の日になって警察に連絡したということですか?」
「ええ、次の日も無断欠勤してはりましたから」
「それで警察に?」
「そうです、店長が連絡しました」
 
 報道では、真由が無断欠勤した日の夜、和彦は真由のマンションに様子を見に行っている。マンション玄関のオートロックの暗証番号を知っていたので中に入り、エレベーターで八階まで上がった。
 そこで、部屋の呼び鈴を何度か押したが真由は出なかった。和彦は合鍵を前の晩、真由と別れた際に部屋のテーブルの上に置いてきたことを思い出した。別れのケジメに返したつもりだった。仕方なくいったん玄関ホールまで降りて、そこからまた携帯に電話をしたが、もちろん真由は死んでいたので返答はなかった。  
 その時の和彦が右往左往している様子はマンションのカメラに記録されている。結局部屋に入れないまま、帰宅したと証言している。

 そして、翌日も真由が出勤して来なかったので和彦は真由の関係先に連絡を入れたが、芳しい返答がどこからもなかったことから、もし中で倒れていたらと懸念し警察に電話した。
 その電話を受けた警察が、マンションの管理会社に連絡をして合鍵で開け死体を発見したのだった。和彦の任意同行から逮捕までは早かった。真由の携帯には、和彦との多数のLINEのやり取りや着信記録が残っていたからだ。
 
 私は、ある頼みごとをするため、再度榊に連絡を取った。

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makocchi
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