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廃品回収車地獄
あれは10年ほど前だったか。
真冬の朝、僕はようやく原稿作業を切り上げ、ベッドに身体を横たえた。『蟻地獄』の執筆期間中で、朝に寝るのが通例となっていた。
こう言うと「偉いね」と褒められることがあるが、そのぶん昼間に寝ているのだから偉いことなどまったくない。ネタをつくるのも、文章を書くのも、単に夜中のほうが集中できるからそうしているというだけの話だ。
長時間思考を働かせていた頭には、頭痛に似た違和感があった。
温かい布団は、それを徐々に溶かしていってくれた。
ああ、なんて幸せなひと時なんだろう……。
僕の意識は眠りに引き寄せられていく。
『こちらは、廃品回収車です。ご不要になった、テレビ、エアコン、冷蔵庫――』
外から若い女の声が響いてきて、僕の意識は覚醒させられてしまった。
しかし廃品回収車は悪くない。世界はとっくに動き出しているというのに、こんな時間に眠ろうとしている自分が悪いのだ。
スピーカーの声は遠ざかっていった。
僕はふたたび目を閉じて、ささやかな幸せを噛み締めた。
ああ、毛布って、どうしてこんなに肌触りがいいんだろう……。
僕の意識は眠りに引き寄せられていく。
『こちらは、廃品回収車です。ご不要になった、テレビ、エアコン、冷蔵庫――』
さっき聞いたばかりのセリフが響いてきて、僕の意識は覚醒させられてしまった。
しかし廃品回収車は悪くない。一回通っただけでは、廃品を出したい人が出せないだろう。もう一度通ったのは必然なのだ。
スピーカーの声は遠ざかっていった。
僕はふたたび目を閉じて、自分を包むぬくもりを意識した。
ああ、あったかい。そういえば、毛布の上に布団じゃなく、布団の上に毛布をかけるのがじつは正しいのだと、どこかで聞いたような。まあ、どっちでもいいや。こんなに幸せなんだから……。
僕の意識は眠りに引き寄せられていく。
『こちらは、廃品回収車です。ご不要になった、テレビ、エアコン、冷蔵庫――』
あのバカでかい声が響いてきて、僕の幸せは壊されてしまった。
僕は毛布を布団ごと跳ねのけて立ち上がると、声が聞こえるほうへと歩いていき、窓を開けた。
煮えたぎる感情をため息に籠め、小さく見える廃品回収車の荷台に向かって吐き出した。
命中したかどうかはわからないが、とにかく僕の中から負の感情は消え去っていた。
窓を閉め、ベッドに戻った。
うまく感情のコントロールができた自分を、僕は誇らしく思った。理不尽にブチギレて許されるのは子供のうちだけだ。僕は社会の仕組みを客観的に捉えて行動できる、立派な大人になったんだ。
もしかしたら、この眠りに落ちるまでの時間を幸せに思えるのも、大人になったから……なのかも……しれな……。
『こちらは、廃品回収車です。ご不要になった、テレビ、エアコン、冷蔵庫――』
「うるせえな、ちきしょう!」
僕は絶叫しながら起き上がった。
ふざけやがって。4回だぞ。4回もやりやがった! あの廃品回収車、いったいどうしてくれようか……。
僕はベッドのへりに腰掛けながら、前のめりになって考えた。
そして、決意した。
廃品を、出そう。
寝室には、ずいぶん前にリビング用から格下げになった小型の液晶テレビと、実家から持ってきていた古いラジカセがあった。どちらも、もう長いこと電源を入れてさえいない。
4度も眠りを妨げられたこの不運を無駄にしないためには、もはやそうするしかない。
ダウンジャケットを羽織り、液晶テレビとラジカセの取っ手を、それぞれの手で摑んだ。クロックスをつっかけてエレベーターに乗り込み、マンションを出る。
天気は曇りで、いまにも雪が降りそうな寒さだった。
両手は塞がっているものだから、ポケットに入れることも、擦り合わせて温めることもできない。寒さを忘れるため、僕は自分の吐く白い息が、出現しては消える様子を見つめていた。
僕は待った。初めてあの声が聞こえるのを待った。
そして数分が経ったとき、僕は悟った。
もう、来ないな……。
足の指先は、鈍痛を感じるほどに冷えていた。
特大の白い息が宙に溶けていく中、僕は車道に背を向けて歩き出した。
この世界には、不思議な力が働いている。
もし僕があのまま寝ようとしていたら、きっと廃品回収車はまた来ていたのだろう。僕が発狂するまで、何度でも。来なくなったのは、僕が廃品を出そうとしたからだ。つまり、あの声を止めるためには、これは必要なことだったのだ。
そう自らを納得させ、僕は部屋に戻った。
液晶テレビとラジカセを、寝室の元あった場所に戻した。
二つとも、少しほっとしているように見えた。
ベッドはすぐ横にあるが、とても眠れるような状態ではなくなっていた。
追い炊きボタンを押し、僕は湯舟に浸かった。
僕の体温を利用する布団とは違い、それ自体が熱を持つお湯は、冷え切った身体をみるみる温めてくれた。
けっきょくこれが、一番の幸せかもな。
今朝起こったすべての出来事は、これを味わうためにあったのかもしれない。
僕は風呂場の出窓越しに空を眺めた。
――だが、もしもいま、あの声が聞こえてこようものなら、俺は悪魔になるだろう。
幸い、そんなことは起こらなかった。