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競技生活を振り返って⑭

・最後の1ヶ月

競技生活も残り1ヶ月?です。
奥多摩駅伝では4年生で襷を繋ぎ最後の駅伝もこれで終わりになります。
初ヴェイパーフライ4%でのレースはロードでの反発もあり気持ちも軽くなっていて何か楽しかったです。

ここでもお話しましたが奥多摩駅伝の1週間後に箱根駅伝エントリーメンバーが発表されます。そして、選手として1年間走れる事がここで決定して中井と一緒に走るのが5年目に突入するのが決まりました。

ここでの心境はスタンド攻撃を受けた様な感覚でしたね。


急遽、人生が大きく変わりました。
嬉しい誤算とはこの事ですね。

そして、拓殖大学陸上競技部として最後のトラックレースが始まります。

12月14日 国士舘大学記録会10000m
「30'39"41(2'54、5'49(2'55)、8'51(3'01)、11'52(3'01)、14'57(3'04)、18'06(3'08)、21'16(3'09)、24'25(3'09)、27'33(3'08)、30'39(3'06)、14'57+15'42」

10000mは数秒ですが自己ベスト。
先頭の方のペースが速かった為、集団の後方でのペースがちょうど良かったです。
5000mは自己ベストでの通過は終わってから気付いて驚きました。5000〜9000mは400m75秒の動きにハマってしまい抜け出せなくなります。

途中から単独走になったりもしました。潰れてもいいからいけるところまで思いっ切りいってみてたら…とタラレバもありましたがこれも実力です。

12月15日 国士舘大学記録会5000m
「15'03"39(2'52、5'53(3'01)、8'56(3'03)、12'03(3'07)、15'03(3'00)」

5000mは沢山の4年生がエントリーした最後のレースです。
10000mのダメージが大きく動かなかったですがとにかく楽しく頑張りました。
2'52で入るなんて1年前だと出来ていません。タイムは付いてこなくても成長を実感した2日間でした。キツくても最高に楽しかったです。

この頃から試合を厚底で走る方が終わった後の疲労が抜けにくい感覚があります。
厚底で出し切ると筋肉の奥の方に疲労が溜まって抜けにくい状態な気がします。
薄底の方が表面に疲労が最初に出てきて奥の方も表面化しやすい感覚です。

2年の頃からこの時期の記録会は走りますが体格の変化があります。
左が2年の頃で絞るのではなく痩せていた頃になります。真ん中が3年の頃でしっかり食べてしっかり走る様にしていました。右が4年で5000mの写真になりますが10000mを走った翌日なので絞れてますが体が一回り大きくなったと思います。やはり、しっかり食べて走るというのが1番効果的です。
今は体重計に乗るのは重く感じた時だけにしようかなと考えています。

このレースの翌日に内定者の集いで初めて鼡田と山田、宮澤と対面です。中井は箱根前の合宿で不参加でした。
山田が改札を何故か通れなくて集合時間に遅れてきたのは今でも覚えています。
テーブルが左隣が社長、右隣が鼡田、部長、山田のメンバーで料理は美味しかった気がします。緊張で覚えてないです(笑)

その後は、箱根駅伝に向けて最後の練習になっていきます。
私は、2試合連続が響いたのか左脚が固まってうまく後ろに押せない状態でした。
うまく力は入らないし温まらないと動きが戻らないので故障気味でした。
4年生最後ということで痛くても練習を引っ張ったり最後まで走り切ります。

そして750という数字の呪縛からの解放です。

・2020年 最後の箱根駅伝

最後の箱根駅伝がスタートします。
私は、3区10キロ赤﨑の給水と9区10キロ中井の給水を担当しました。
数十メートルですが同期と一緒に走れた事は良い思い出です。
チームは13位でシード権を逃してしまいましたがこの年は区間新記録祭りでレベルが高かったです。翌年以降に繋がる走りで力は出し切れたと思います。あくまで個人目線です。

箱根駅伝翌日の飲み会も楽しかったです。
ただこれで終わりだと思うと寂しいものです。
もう1年、山下監督のもとで練習したいと思えた程です。4年間でこのチームが好きになったんだと実感させられました。

監督やマネージャー、同期、後輩達には感謝してもしきれないくらいです。4年間キツイことの方が多くて楽しい事なんて数える程しかなかったけどやってきてよかったと言えます。
本当にお世話になりました。

私は、1月5日に退寮して茨城の実家に戻りました。ひとまず最後の箱根駅伝が終わり一区切りになります。

次はこの後から3月の新潟に引っ越すまでの期間まで。大学で感じた事を書いてみようかと思います。

さて、ここだけの話ですが後期は授業がゼミ以外無かった為、隠れて世田谷教習所に車の免許を取りにいってました。
せっかくなのでマニュアルで。
家が車無いと生活出来ないというのとマネージャーをやるなら必要だと思ったからです。

マニュアルで取りにいって会社からもマニュアルと言われたので結果良かったです。
教習所は路上に出てからの方が乗りやすくて楽しかったです。ただ、世田谷の高級住宅街で坂の上に行かされた時は冷や汗が止まりませんでした。環八も怖かったです。

新潟を出てから携帯で車のカタログばっかり見ていて次買う車はトヨタのCH-Rかヤリスクロスにしようと思っています。車に乗り始めるまで興味無かったのに今では欲しい車があるので1、2年後に買おうと思います。


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