『共食い』はいけないことか?

今日、SNSでたまたま見かけたつぶやきの1つ
「カマキリさんたちが共食いしていたから助けてあげた」
これを刺激として思うところがあり、一文書いてみたくなった。

別に「この偽善者がァーッッ!」と責めたいわけではない。
ただ、どうしても「?」が浮かぶ。
「助けてあげた」とあるだけで、その助け方の前後の詳細説明はない。
写真はあったが、どこでただの喧嘩でなく「共食い」と判断したのか?

産卵に入ったメスがオスを頭だけ残して食べてしまった、というのは
小学生だった自分の脳裏にもなかなかに鮮烈な記憶として残っている。
ただ、カマキリが相争っているのを見て
「共食い」と判断する根拠はなんだろう?
自分の知らない判断基準があるんだろうか。

仮に事実『共食い』だとして、「助けてあげた」というのは
その両方の間に入って闘争を仲裁し、両者に対して給餌を行ったということか。
そうでなければ、「生きるために餌を得る行為」をただ邪魔しただけになり、「助けてあげた」ことにはならない。
両者から共に目の前の餌を取り上げただけだ。

そしてまた、我々の傾向として「共食いはいけないこと」
(だから止めなければ)と思うのはなぜか?

確かに、我々の隣人が「食べるものがないから」と
玄関を開けたらヨダレを垂らして出刃包丁でも構えていたら恐怖だ。
安心できない。

だから、我々の社会では「共食いはよくない」ということになっている。

実際、古代中国では「屠城」といい、
日本でも戦国時代(秀吉とかも戦法として使った)に
城の外壁を自分たちの数倍の敵兵に囲まれて籠城した際などに
歴史上の事実として『共食い』は起きている。
(少なくとも自分の観測範囲ではそのように理解している)

過去そうした経緯はあったが、現代ではそうそう滅多に
「眼の前の同族しか他に食べるものがない」という状況には陥らない。
とはいえ、大震災や戦時中となれば話は別だろう。

『共食いはよくないことだ』

だから、異種生物のその行いもよくない

それを止めることは、善い行いだ。

たぶん、現代に生きる我々はごく自然にこの思考プロセスを通過する
そこに強い抵抗は感じない。

なので、異種生物が共食いをするのを目にしても
「それは間違った行為だから、止めなくては」と感じるのかもしれない。

ただ、『共食いを止めること』「=」「善いこと」か?
これはまた別問題な気がする。
少なくとも、共食いを止めることそのものは
別に善行ではないのだろう。

彼らは飢えており、同等の戦闘力を持つであろう
同族と命がけの殺し合い
文字通り「喰うか、喰われるか」の覚悟で
眼の前の敵と相対しているのかもしれない。

それに水を差し、単に引き離すだけなら
その後両者は飢えて死ぬだけなのかもしれない。
それは「善いこと」ではないだろう。

実際はどうだか知らない。
そのSNSの投稿主を批判してるつもりもないし、
決めつけているつもりもない。

ただ2匹のカマキリが向き合って
ファイティングポーズを取っているように見える写真と
「共食いしてたから助けてあげた」という一文から
思い浮かんだ発想と仮説を述べているに過ぎない。

でも、もし自分がカマキリだったら?
負けたらその場で即座に肉にされる闘鶏場の軍鶏だったら?
命を人間に握られた動物だったら?

人間の観点で「〜してあげる」というのは、多くの場面で
「正解」と言えるのか?
それとも勝手な価値観の押し付けに過ぎないのか。
答えはない。
でも考え続けるんだろうな。
それこそ生命に危機を覚えることのない身上、
言ってしまえば心がヒマだからこそ考えるのかもだけど。

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