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ゴッド・オブ・マツヤ

あれは4月の平日の夜のことだった。

仕事で疲れ果てた僕は、半ば放心状態で家路を辿り、かろうじて自宅近くの松屋へたどり着いた。

店内の席は半分ほどが埋まっていた。僕は食券を買うなりカウンター席に崩れ落ち、背中を丸めて夕飯(というより夜食)の提供を待っている。

僕は今月に転職をしたばかりだった。年度初めである4月は、決算の処理があって繁忙期を迎えているらしい。慣れない仕事に夜半まで精神を擦り減らしていた。

時刻は午後11時を回っていた。疲れ果てた僕にとって、松屋の店内の照明は過剰に明るかった。

「おろし、牛めし…」

カウンターの内側から、外国人女性の店員がおぼつかない手つきで夜食を出してくれた。タイかカンボジアあたりの国の人で、年は20代前半だろうか。まだ顔に幼さが残っている。
僕にとって松屋といえばブラウンソースハンバーグ定食(目玉焼き付き)が鉄板だが、今日はもうこの時刻だ。少しでも胃に優しいものを食べようと思った。

僕が牛めしをかきこんでいると、一人の男性客が入店してきた。
男は購入した食券と小銭を同時にカウンターに放り投げ、ぶっきらぼうに言った。

「お茶。」

先ほどの外国人女性店員が、入店してきた男に温かいお茶を出し、同時に食券を受け取って定食の名前を確認した。すると男は怒鳴った。

「ちげーよ!!お茶だよ!お茶!!」

女性店員が固まってしまった。まだ少し日本語に不慣れなこともあるのか、男の言っていることが理解できないようだ。
ちなみに、僕も全く理解できない。

「お茶だよ!お茶を出せよ!わかんねーのかよ!」

ーーこの時間帯にやばい奴に出くわしてしまったかもしれない。お茶はお前の目の前に出ているぞ?
(この男、プロレスラーの佐山聡(初代タイガーマスク)を3倍ほどモサくした風貌をしていたので、この後は佐山と表記する)

「お茶だよ!!お茶!!金を出してんだろうが!!」

佐山は声を荒げ続けている。女性店員が涙目になって厨房に助けを求めると、奥からバイトリーダーらしき男性が気怠そうに出てきた。

「お茶だって言ってんのにこいつが出さねえんだよ!!150円のお茶だよ!!」

バイトリーダーがようやく注文を理解したようで、500mlの烏龍茶のペットボトルを佐山のカウンターに差し出した。

チッ

佐山は苛々しながらペットボトルに口を付け、烏龍茶をグビグビと飲みはじめた。

ーー松屋のメニューにペットボトルの烏龍茶とかあったんだ。ていうか最初からペットボトルのお茶だって言えばわかる話だろ。あとなんで定食は食券を買ったのにお茶だけは現金で払おうとしたんだよ。

たった一度の注文で、解せない要素が満載である。とんでもないモンスター客がやってきたものだ。

佐山は萎縮している女性店員に矢継ぎ早に罵声を浴びせた。

「おい!!先に野菜だ!!」

ーーたしかに松屋で定食を注文すると最初に生野菜が提供されるが、それを客から言う必要は無い。何でお前はそんなに偉そうなんだ。松屋の神にでもなったつもりか。

女性店員は生野菜の入った皿を佐山に提供した。その後で数名の客が入店し、店内がそこそこ混んできたので、女性店員は忙しく動き回っていた。

するとその時である。複数の客を対応して慌ててしまったのか、女性店員は佐山のカウンターに生野菜の皿をもう一度出してしまったのだ。

もちろんそんなミスを暴神・佐山が許すはずがない。

「てめえ馬鹿か!!野菜はさっきてめーが出したんだろうが!!何やってんだよ!!」

また女性店員は萎縮し、混乱した様子で固まってしまった。

……怒鳴るな佐山。野菜はさっき貰いましたよ。2個はいりませんよ、って伝えてやればいいじゃねえか。それにもう深夜なんだよ。少しは静かにしろ。

転職早々に疲労困憊していた僕は、慣れない仕事に戸惑っている女性店員に心底同情した。それと同時に、深夜の松屋で罵声を浴びせ哀れなマウントを取り続ける佐山を侮蔑に満ちた目で見ていた。

「てめえが2回持ってきたから野菜が2個あんじゃねえか!!わかるか?!ツー!!野菜がTWO!!!」

あっ。TWO…。はい。

女性店員はやっと状況が理解できた、という表情で頷いた。

そして、生野菜を追加で2皿持ってきた。
佐山のカウンターには4皿の生野菜が並んだ。

……さすがに4皿はないよな。うん。
その状況の面白さが、同情と侮蔑の念を少しだけ飲み込んでしまった。

4皿の生野菜を目の前にして佐山が暴れ狂ったのは言うまでもない。
居た堪れなくなった僕は、そちらの方にはもう生野菜は出さなくて良いんですよ。と思わず口を出してしまった。


今振り返ってみると、あの4皿の生野菜は、あまりに不条理なクレームを浴びせ続ける佐山に対して、女性店員がしてやったせめてもの反抗だったのではないか。とも思うが、たぶん違うな。うん。

いずれにせよ、あんな悪神が二度と松屋に舞い戻らないことを願うばかりである。
松屋はみんなの食卓なのだから。

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いたばくし
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